「まだ終わっていなかったのか?」 石造りだがどこか温かみを感じさせる広大な執務室に、 谷間を渡る風のような澄んだ声が流れていく。 その厳しくも清かな声に相応しい姿をした来客は、 何時も通り美しい顔に密かな笑みをのせながらこの部屋の主を見据えた。 「お前の事だからとっくに終わらせて酒でも飲んでいると思ったが?」 「そのつもりで用意までして、オメェを待ってたんだけどな」 対する主は精悍な顔に含みありげな笑みを浮かべて、雷の司たる親友を出迎える。 「何か問題でもあったのか?」 その表情に平時のものとは別種の違和感を感じ、美しい来客はその怜悧な表情を曇らせた。 来客は九天雷帝といい、人界での名を聞仲という。 応じる主は泰山府君と呼ばれ、人界では黄飛虎と名乗っていた。 「事故だな。予定外の事故があったんで、急遽ここに来る連中が増えた」 五岳の長である飛虎は冥府の管理を司る。その飛虎が『予定外』だと言うからには、 『本来ならば起こる筈の無い災い』が発生したという事だった。 「まあ、連中の案内位なら天化に任せてもいいが、 名簿と一応の振り分けだけは俺がやっとかなきゃねんねぇからな」 何しろあいつは事務処理能力が皆無だからなと笑う、ある意味無責任な父親に呆れそうになるが、 勿論問題はそんな事ではない。 「ちょっと待て」 思わず眉間に皺を寄せ半眼になりながら近寄れば、 飛虎は如何にも意外そうな表情で視線を返してきた。 「何だ?いくら天化が半人前だって、受付と案内位なら問題なく出来ると思うぜ?」 人好きのする豊かな表情と、のほほんとした言い方に騙される者は少なくないだろう。 だが目の前にいるのは、かつての大国「殷」で長年武成王の地位を勤め上げてきた男だ。 そして神界に於いては現世の未練を断ち切れない死者達を取り仕切る、冥府の支配者である。 一筋縄ではいかない男であることは、聞仲自身が誰よりもよく知っていた。 「はぐらかすな。私の言いたい事など分かっている筈だ」 普段よりも温度の低い声音で問い質せば、飛虎はくるくるとよく変わる表情を収め、 強い色を宿した瞳を露にした。 「―不足の事態が起こったのなら、休暇など取っている場合ではない―だろ?」 「ならば…」 事態の究明こそを最優先に…と言おうとした聞仲の言葉を飛虎は無理矢理に遮った。 「休暇は返上しない。大体この休みを取るのだって無理矢理みてぇなもんだったんだ。 今日を逃したら当分休みナシじゃねぇか」 「…飛虎?」 「ただし!」 不測の事態にも関わらず不真面目な飛虎の態度を探るような瞳で見つめる聞仲の額… 即ち天眼にその指を突きつけると、飛虎は挑むように笑う。 「行先は変更だ。もう許可は取ってあるからな」 「人界…か」 地上の調査は本来、部下の仕事である。神界の上位に位置する彼らは、 部下の手に負えない程の問題が起こらない限り自ら動く事は無い。 それを曲げてまで己で動こうというのは飛虎の変わらない気質でもあり、 事態の重さを表しているのだろう。 「デート先が気に入ったんなら大人しく待ってろ。直ぐに終わらせっからよ」 そう言って晴れやかに笑いながら珍しく真面目に仕事をしているその姿に、 思わず笑みが浮かんだ。 「…手伝おう」 「聞仲?」 「私でも多少の手助けにはなるだろう。それに…」 比類なく優秀な文官であった元太師のありがたい申し出に思わず顔を上げると、 目に飛び込んできた光景に飛虎は思わず動きを止めた。 「お前との逢瀬が待ちきれないからな」 そう囁く聞仲の艶のある表情に、魅惑的なその声に思わず手を伸ばせば、 当然の如く無常に振り払われた。 追い討ちを掛けるかように、人界が楽しみだ…と誘うように微笑まれ、 飛虎はその理不尽さと敗北感に打ちのめされながら、不機嫌に仕事を続けるしかなかった。 ◇◇続◇◇ 飛虎聞、神界デート失敗編(笑) この後、人界での二人が選ぶのは仕事?それとも逢瀬? …まあ、相手が聞仲様な時点で飛虎の敗北は決まってるようなものですよね(笑) |