日本アルプスは危険だ。 毎年毎年冬になると遭難者を探すためにヘリコプターと救助隊が駆り出され、そのなかには遺体となって見つかる。 わざわざ雪が降っていて寒くて危険な場所に何故自ら行くのか。登山をした事の無い者たちはそう考えるが、クライマー達には例えようの無い魅力があるらしい。 そうして今日もまた一人の男が己の浅い経験を顧みずに雪山に挑戦したのである。 <1> 右を見ても左を見ても雪だけの世界。 他にあるのは黒い岩、灰色の重苦しい空、自分の吐き出す白い吐息。 黄飛虎はサングラスを外すと辺りをもう一度見直した。しかし黒いレンズ越に見ても肉眼で見ても自分が何処に行けば良いのか、どうすれば良いのかさっぱり分からなかった。 彼は大きな背中を丸めて襟首の辺りを乱暴に掻く。 その姿勢のまま暫くぼんやりと考えると、ぼそりと呟いた。 「やっぱり遭難したのかな、俺」 水泳、ボディーボード、バスケ、サッカー、スキー、スノボ等、今までどんなスポーツも1,2回習えば人並み以上に上手にこなしてきたので登山も大丈夫だと思い、3度目にして一人で雪山(しかも日本アルプス)に挑戦してしまったのは、どうやら間違いだったらしい。 スキーで雪には慣れていると思っていたが、滑るのと歩くのでは全く勝手が違う。 足腰はだるいし、道は分からないし、しかも山の天気は気まぐれで麓にいた時は快晴だったが今では強風と共に吹雪が舞い降っている。 体のコリを左右に首を動かしてほぐすと、飛虎はため息を付いた。 「どうしよ、俺。やっぱりこのまま野垂れ死ぬのかな…」 まさに「途方にくれる」といった表情で呆然と雪の中で力なく立ちつくしていると、背後から声がかかった。 「何やっているのだ、お前」 やや男にしては高いその声につられて振り向くと数歩後ろに人が立っていた。 淡い金髪に雪と同じくらい白い肌、氷を閉じ込めたような淡い青の瞳。寒い中登山をしているので頬と唇が赤くなっているのがなんとも言えない色気を醸していた。 飛虎は言葉を失ってその整った顔を見つめた。男がいると思って振り向いたらこの様な美形がいたなどと誰が想像つくだろうか。 美貌の青年は眉間に皺を寄せて飛虎を見返した。 「さては道に迷ったな?…まったく、これだから素人がいきがって冬山に来るのは辞めて欲しいものだよ。いちいちお前みたいなヤツの為に私のクライムを邪魔されると不機嫌でたまらないな」 顔は美しく、ほっそりとした中性的な容姿をしている青年の中身は辛口だった。 飛虎はやっと我に帰って苦笑を浮かべて頭を下げる。 「すまねぇ…」 「すまないで済むと思うのか」 青年はわざとらしくため息をつくとくるりと180度回転して歩き出した。二,三歩進んだところで背後に大男がついてこないのに気付くと足を止め、また肩越しに振り向いた。 いかにも不機嫌な声が飛虎に突き刺さる。 「何をしている。ぐずぐずしていると陽が沈むぞ」 「え…?」 「だから何をしているのだと言っているのだ。早く来い。陽が沈んだらテントも張れなくなって凍死するぞ」 <2> 青年の指示に従ってテントを張り終えた時には太陽は沈み、辺りは闇と雪に包まれて視界は全くきかなくなっていた。 青年はランプを取り出すと慣れた手つきで灯を点けた。光が青年の横顔を照らすと飛虎は片眉をひょいと上げた。 この横顔は何処かで見たことが有る。飛虎は暫く考えると手を叩いた。 「あんた有名な登山家だろう?」 その整った顔は自分に登山を教えてくれた友人の部屋で読んだ登山雑誌に載っていた。写真写りが悪い、というか目の前にいる彼本来の覇気が写真では写し取られていなかったので、飛虎は一目見ただけでは分からなかった。 「確かマッターホルンとか、チベットとかいろんな山を登っているんだろ?雑誌で読んだぜ。ええと名前は…」 「聞仲だ」 飛虎が名前を思い出す前に青年は自己紹介した。 「そうそう。聞仲だ。始めまして俺は黄飛虎。飛虎って呼んでくれよ」 「では飛虎」 「何だい?」 「お前は此処が何処だか分かっているのか?」 「日本アルプス」 「馬鹿者、私が聞いているのはこの峰の名前だ」 「え、此処に名前あるの?」 「お前、そんな事も…」 聞仲は開いた口がふさがらない、といった様子で呆然とした表情で唇を半開きのまま固まってしまう。しかし直ぐに我に帰り、鋭い視線で飛虎を見返した。 「飛虎、今日は何度目の挑戦だ?」 「3回目。一回目は夏にぽんぽこ山、二回目は秋ににこにこ山に登山部の友達が連れて行ってくれたんだ」 「ぽんぽこ…にこにこぉ?」 「ああ。で、今日はこの前雑誌で見たら雪山が綺麗だったから此処に一人で来たんだ」 「・・・・」 「でもこんなに雪が降るとは思わなかったぜ。よくさ、テレビとかで『山の天気は変わりやすい』て言うけど本当なんだな。初めて実感したよ。スキーと違って歩き難いし、足腰だるいし雪って歩くのと滑るのでは全然違うんだな」 「・・・・」 「あれ?あんた大丈夫か?さっきから黙っているが」 俯いたまま肩を震わせている聞仲を不審に思い飛虎が顔を近づける。 「…っこの、馬鹿者がぁ!」 鼓膜を震わす怒鳴り声と共に聞仲は飛虎の襟元を両手で締め上げた。飛虎は情けない悲鳴を漏らす。 「ふぐっ、ぐぐぐ苦しいっ」 「登山すら平たい山しかしたことが無い度素人が日本アルプス屈指の難所を狙うとは身のほど知らず過ぎるぞ!」 「タップ、タップ、もう勘弁してくれっ」 飛虎がプロレスの如く右手を何度も叩いて限界を示すとやっと聞仲はその手を緩めた。飛虎は咳き込むとかろうじて空気を体内に取り入れる。 「なん、だよぉ、いきな、り」 肩で息をしながら飛虎は聞仲を見る。 聞仲はいまいましい物を見るように飛虎を睨んだ。 「貴様は冬の山をなめすぎているぞ!いいか、此処は日本アルプス屈指の難所なんだぞ。素人がお遊びで来るような場所ではないんだっ!」 「え。そうなのか…?」 「今回は私が偶然お前を見つけられたから良かったものの、もしもあのまま一人で残っていたらどうなったと思っているんだ?お前のような馬鹿者の為に捜索隊が日夜構わず探し続けるのだぞ、それをどう思っているんだ!」 「・・・・済まない。軽率だった」 「一人で反省していろ、馬鹿者」 そう言い放った途端、聞仲は可愛らしいくしゃみをした。 飛虎は直ぐに犬のように下げていた頭を上げた。 「大丈夫か?寒くないか?」 「…平気だ。このくらいの寒さは慣れて――っくしゅんっ」 「何言っているんだよ、どう考えたって寒いんだろ?こっち来いよ」 「結構だ―――こら、何をするのだっ」 聞仲の抗議も聞かずに飛虎は体格の良さを利用して隣にいる細身の体を抱き寄せた。 腰に手を回して体を密着させると聞仲のうなじに顔を突っ込む。 「こら、くすぐったいだろ!離せ!」 「なんかいい香がするな、お前。香水でも使っている?」 「男が使うわけ無いだろ!」 「そうなのか?でもなんかいい香だぜ」 「何バカな事を言っているんだっ!兎に角その腕を離せ!」 「でもこうしていれば暖かいだろう?お前の体を冷やさない為には俺の体温を分けてやるのが一番だぜ」 「結構だ」 「まあまあそう言わずに。落ち着けよ」 「これが落ち着ける状況か!」 「…だってこれぐらいしか俺に出来る事無いだろ?」 急に飛虎の口調が真面目になる。聞仲は暴れるのを止して首を捻って飛虎の顔を見上げた。 飛虎は先ほどまでのだらしの無い笑みを表情から消して真剣な顔をしていた。 「遭難するところを助けてもらったのに、素人で、図体ばかりでかくてお前のテントを占拠しているのに何もする事が出来ないからせめて俺の体温くらいあんたにあげても良いだろ…?」 「……好きにしろ」 聞仲は視線を自分の足元に落とし、小さな声で飛虎に抱き寄せるのを許した。顔を背けてしまったので彼には見えなかったが、飛虎は聞仲の白いうなじを見ながらにやりと企みの笑顔を浮かべた。 一人は気恥ずかしさで、一人は腹の中で黒い企みを企てているので言葉も無く互いの体温を感じる。 外は闇に包まれ、風音以外は何も聞こえない。 普段ならば何も感じない普通の雪山なのに、飛虎がいるせいか聞仲にはやけに静かに感じられた。 その居心地の悪さと深深と身に迫る寒さを誤魔化そうと聞仲は口を開く。 「お前…気持ち悪くないのか?」 「何が?」 言っている意味が分からない、という様子で後ろから自分を覗き込む飛虎に、聞仲は閉口した。 「私は男なのだぞ?こんな風に抱き寄せて、その…」 「ああ、そういう事か」 軽く肩をすくめてみせる飛虎。 「確かに普通の男だったら抱き寄せるなんてぜってえ嫌だな」 「・・・・?」 「けどよ、あんたみたいな美形なら悪くない」 と言ってにやりと笑う飛虎に聞仲は本能的な恐怖を予感した。 「お、おい。お前もしかして…」 「そういう趣味は無かったけど、あんたは特別かもしれないなぁ」 「馬鹿言えっ」 聞仲は予感を確信に変えると慌てて身を捩って飛虎の腕から逃れようとした。純情(?)なその態度に飛虎は意地悪な気持ちになった。 体格と腕力を活かして聞仲の細身の体を自分の膝の上に乗せる。 「はなせっ」 「離すかよ。こんなに綺麗な顔なのに口は悪いな…」 「止めろ、女顔のことは言うなっ」 「何でだよ。本当に綺麗なんだから良いだろ?超俺の好みだぜ」 「男にそんな事を言われても嬉しくない!だからこの手を離せっ!」 「嫌だって言ってんだろうが。…まったくなんてこんな奴に一目ぼれしちゃったんだろうな、俺」 「はあああ?」 「顔は俺の好みそのものなんだよ。気の強いのも好きなんだが、ただ口が悪」 「五月蝿いっ!」 「…いってぇな。お前よー、頭突きは止せ。舌噛むところだったぞ」 「お前など舌噛んで死んでしまえばいい!」 「あ、ひでえ。俺のキスを味合わないでそういう事言うか?一度したら病み付きだぜv」 「ぎゃあああ、来るな、来るなっ」 雪山に滅多に聞く事の出来ない聞仲の悲鳴が響き渡る。 顎をつかんで無理やり聞仲の顔を向かせる飛虎。 必死に逃げる聞仲。 幾ら飛虎が並ならぬ筋力の持ち主であろうとも、成人男性の聞仲が渾身の力で暴れれば体制を崩す。 不意に体の自由を得た聞仲も勢い余って体制を崩す。 ベキっ、バキっ、バリっ! 簡易テントはあっという間に壊れ去ってしまった。 ぺしゃんこになったテントからはいずるようにして聞仲が出てくる。慌てて服を調え、荷物を抱えると小動物のような素早さでテントの残骸から逃げ出す。 「待てよ、聞仲!」 ようやく這い出てきた飛虎の声に聞仲は電気が止まった人形のように体を固まらせた。 ホラー映画で殺人鬼と出くわした時、若しくはサスペンス映画で犯人に見つかってしまった時のように恐る恐る目を見開きながらゆっくりと振り返る聞仲。 飛虎は雪の中から何かを拾い上げて聞仲に向かって投げる。 「それも無くてどうやって方角見分けるつもりだったんだ?この吹雪じゃどうしようもないぜ?」 聞仲の足元に落ちてきたのはぺしゃんこに潰された方位磁針だった。おそらくテントが潰れたどさくさでどちらかが踏み潰してしまったのだろう。 呆然とする聞仲。飛虎はおもむろにポケットから黒い塊を取り出した。 「万が一の為に友達から借りておいてよかったぜ…」 飛虎の手には衛星携帯電話。バッテリーも耐寒用で問題の無い物である。 「俺が今電話をかければ救援は来る。だけど今此処を去ってしまったら…」 聞仲の顔から血の気が引き、白い頬が青白くなった。 片眉を上げ、覗き込むようにして聞仲を見る飛虎。 「どうする?聞仲。遭難するか?俺といるか?」 吹きすさぶ雪が二人の視界をさえぎる。 真っ黒い空すらも雪に覆い尽くされて良く見えないほどだ。 一陣の風が大きく吹き、雪を舞い上がらせる。 聞仲の頬が引きつった。 飛虎の笑顔の向こうに、悪魔の姿を聞仲は見た。 <了> えーと、またまた馬鹿全開の話を書いてしまいました…。 こんな物を送りつけてしまい、申し訳御座いません(謝)。雪山という設定が余りにも消化できていないギャグになってしまいました。 聞仲に助けてもらっておきながら飛虎のこの仕打ち!恐ろしいです。しかも携帯電話の存在をほのめかしもしなかったし、相当腹黒いです。哀れ聞仲…。 ◇流より一言◇ HUI様のサイトで9500hitした時のリクエスト「雪山遭難」です♪ この話の飛虎は悪魔のようです(笑)聞仲さまは生贄みたいです(笑) 命の恩人相手に脅迫…何てヤツなんだ飛虎! でも「最後はラブラブ」というリクだったので、この後は無事に(?)ラブラブになるんでしょうね(笑) 名クライマー聞仲は運命の赤いザイルによって悪魔のような大男に繋がれてしまったようです。もう断ち切れないんでしょうね(^-^) HUI様、楽しいお話をありがとうございましたv |