カーテンコール

 

今までのGLAYで最高のバラード。
ええ、ええ、私にとってこの曲ほど“衝動“に突き動かされた曲はありません。

歌詞見て、メロディーがコンポから流れ出した瞬間に硬直でした。
で、ドババババーッと箍が外れたみたいにドババババーッとお涙の時間。
あの衝撃は、5年が経とうとしている今でも鮮やかに憶えています。もの凄い勢いの感動だったのです。

『HOWEVER』が、ファンになったキッカケの曲ですが、この曲はそれとはまた違くて。
2〜3度聴いてるウチに「これはいい!最高だ!」となったのが『HOWEVER』。
けど、『カーテンコール』は、最初の最初に聴いた1秒後にドババババーだったのでした。

「うわっ、これは凄い!このバンドは凄い!」
『HOWEVER』、『軌跡の果て』で感動しまくってた私が、その感動を超える曲に出逢って。
とりあえず、今の私がいます。『カーテンコール』がなかったらこの場所にはいなかったなぁ。

そして原点の言葉がたくさん詰まってる。
何を知りたくて、何を学びたくてGLAYの音楽を聴き続けてるのか。
何を見たくて、何を感じたくてGLAYを見ているのか。
長くもなく、短くもない、GLAYさんが大好きな日々。
その日々の始まりが、この曲を初めて聴いた日なのかもしれないかも。

ベタ褒めの褒めちぎり(笑)。
やろうやろう思ってて、だけど踏みとどまっていましたが、とりあえずスタート。
このお歌がトコトコ歩いてて、石につまづいて転びそうになったら、私が身体を張って守るでしょう(笑)。

最初に作ったのは、20歳〜21歳ぐらいの頃だそうです。
言うなれば、GLAY暗黒時代。明日さえも知れない、自分を認めてくれない「東京」と闘ってた時代。
心も身体もギリギリの状態の中、「GLAYだけは続けてやる」という固い決意を胸に過ごす毎日。

尚:「この曲をやると、1番辛かった時代を思い出すんです」

インタビューで、ひさしさんはそう話していました。
なんていうか、そういうギリギリの状況で生まれるものほど、純度は高くなり。
不自由であれば不自由であるほど、何の濁りもない透明なものが生まれるものだと思う。

その、痛ましいほどの透明さ。
GLAYの楽曲はよく「湿っぽい」と喩えられるけど、それ以上に「透明」な感じ。
テルさんの歌がそれをリアルに伝えてくる。詞の湿っぽさが不思議となくなるのは、テルさんの歌なのですが。

素敵な展開の曲。
最初はピアノと呟くような歌から始まる。
段々と、ギターが絡んでゆき、ヴォーカルの歌も熱を帯びる。
そして、心地よいギターの間奏後は、感情のかたまりを吐き出すように歌われてゆく。

 

忙しい日々に追われながら 幸せだとか不幸せとか忘れていて
   とても小さな別れの歌を口ずさんだ たくさんの疑問符達を飲み込んでた

 

「口ずさんだ」の「さ」の声の中途半端なひっくり返り具合がとてつもなく好きです。
是非一度注意して聴いてみてください。本当に微妙にひっくり返ってる。
たっくんにおけるビリージョエル並に、何度も繰り返してそこだけ聴きます(ウットリ)。

ピアノとヴォーカルのみ。
この透明感は何なのかって思う。
何もかもを削ぎ落としたカタチ。
耳から入ってくるんじゃなく、直接心に響いてくるような。

幸せだとか。
不幸せとか。
忙しい毎日は、当たり前の感情すら何処かに置いてきてしまいがちで。

「心(りっしんべん)」を「亡くす」と書いて、「忙」になる。
こころを失えば、何も感じなくなってしまう。

追いかけてきたはずの、「幸せ」も。
自分の境遇を慰める、「不幸せ」も。

追ってきたものが、すりかわる瞬間。本末転倒。
気づかずに走り続けて、失ったことに気づかない事が多いもので。
気づいた時に、立ち尽くすものであったりする。遅いんだなぁ。

そして、何が幸せで何が不幸せなのかも分からないまま。
「とても小さな別れの歌」。「小さなラブソング」ともタクロウさんは言うね。

「どうしてだよ」
「なんでこんな事になるんだ」
「なんでなんだよ」

たくさんの疑問符達。
いつも全ての出来事に納得して暮らしている人は皆無だろうけど。
きっと、多くの人は不平不満があっても、それを口に出さずに飲み込み続けてる。

そして、いつからか幸せや不幸せにすら心を動かされる事もなくなり。
考える暇も与えられずに、ひたすら時間に追われる日々だけになっていくのだろう。

 

もう真夜中 疲れ果てた男が 無邪気に踊る幻想を数えて

 

それでも。
消耗されるだけの毎日でも。
真夜中、自分の願いが叶う夢を見る。

無邪気に踊る。
フォークダンスかもしれない(ハハハ)。
結構タクロウさんは「踊る」という表現を使うですね。
タクロウさんにとっては、大勢の人の前でライブをするって意味だとは思うんだけど。
…自分の心のままに、開放されて。何にも縛られずに。

身体は疲れ果てていたとしても、夢だけは縛られない。
ここのあたり、切ないです。

重いまぶたを閉じて、心のままに幻想(ゆめ)を見る一人の男。

 

幾つもの傷跡だけが残るようじゃ 隣で眠る貴方の事もそう辛いだけ
      サヨナラの意味が解るまでに 何度 サヨナラを言えばいいのか

 

傷つけ合って、傷を受けて。
跡が残ったままの傷。ひかない痛み。

そういえば、タクロウさんはこんな事も言ってました。

琢:「傷を受けても、それを癒す機能が働かない。全部抱え込んでしまう」

そういう人だからこそ、こういう歌詞が書けるんだろうって感じる。
全部受け止めて、とことん味わって、全て背負う。投げ出しはしない。

だから辛い。
サヨナラを繰り返すたびに、痛みもまた繰り返すから。

傷口に塩を盛るような。
癒えてない傷跡に、追いうちをかけるように、また傷を受ける。
ものすごくいったいんだよ、周りの神経が過敏になってるから尚更痛い。

神経細胞が殲滅して、何も感じなくなったら終わっちゃうんだけど。
それはないんだろうな、切りつけられる時の痛みで何度も覚醒してしまうだろうから。

あと、自分の中から沸いて来る傷もあるよね。
…こういうのは膿?化膿してしまったら、腐ってしまう。

サヨナラの意味。
分からないから、繰り返す?
逃れようがないから、繰り返す?

意味…意味を理解するために、別れはしないよな…。
投げやりなのかな、この主人公…もがいてる様が、すごく伝わってくる。

 

あの少年が追いかけた永遠の夢 拍手の中で静かに揺れる

 

そんな投げやり主人公さんだけど(決め付けるなよ)。
やっと、少年の頃から追いかけ続けてきた夢が、ようやく叶って。
描いてた永遠のような夢が、現実の拍手の中で、やっと叶ったんだ。

暗黒時代に作られた曲。
辛くても、届く気配すらなくても、諦めないで追いかけた、ひとつの夢。

やっとの思いでデビューできて。
たくさんの拍手の中で、歌えることが出来るようになって。
何度も痛みの消えないサヨナラを繰り返しても、大切にし続けた夢。

『カーテンコール』。
演劇や音楽会などの本編が終了し、幕がいったん下りた後、再び上がって出演者が挨拶をする事です。
観客は、最大の惜しみない拍手をもって、出演者達を讃えます。

ライブで言うなら、アンコールが当てはまるかも。
今まで歩いてきた道を、誇りながら挨拶する。
傷を負った心も抱えながら、それでも胸を張って。

間奏のギターは、何度聴いても鳥肌が立ちます。
無駄なフレーズなんか1個もなくて、とても優しいギターソロ。
曲に優しく寄り添うような。同じ時間を共有し続けてきたからこその共鳴のような。

 

ALONE
  悲しみの深いうねりの中で 激しさに導かれ
      息絶えるほどの溺愛を過ぎて せせらぎにたどり着いた…

 

なんつーか、ここは私の中での聖域なんです。
「息絶えるほどの溺愛」なんて、もう墓まで持っていきたいぐらいの言葉なんです。
どどどどどどどうすりゃいいんだろう。何も書けないであります隊長!(誰)

ほんっとーーーーーに、言葉の威力と歌声の威力にやられた。
言葉本来が持ってる凄まじい伝わり具合と、声本来が持ってる凄まじい説得力。
これが歌の真髄のような…声に出すからこそ、真実味を帯びて遠くの人にも伝わってゆくんだと。

説得力というか、納得させる納得力?
何か変だから説得力でいいや。

独り。
悲しみが深ければ、それと同じ強さで激しさも生まれる。
引き裂かれそうな想いなら、それを凌駕する勢いで想いが強くなる。

同じ強さで。
息絶えるほどの溺愛。

死んでしまいそうになるほど、愛してる。

これ…経験した人にしか分からないような愛し方だよね。
経験したんだねタクロウさん。死にそうになるくらい、人を愛したんだね。

言葉では言い表せない、タクロウさんの心の中だと思う。
言葉にし尽くせないほどに愛してる。「すごい!」と思ったの。

「溺愛…相手を客観的に見る目を失い、むやみにかわいがること。盲愛。」

↑は、国語辞典から引用です。
「子供を溺愛する、目に入れても痛くないほどにかわいがる」ってはよく言うけど。
でも死んじゃいけないじゃん。死んだら育てられないじゃん。

「息絶えるほど」なんだよ。
己の全存在を賭けてるんだよ。
かわいがるって生易しいレベルじゃないよ、タクロウさんの場合。

デビュー前、「溺愛」って曲あったよね。
たった1度ライブで披露しただけという、幻の曲。

「溺愛」という曲が存在してた事を知って、ますますこのフレーズに拘りました。
愛した人が死んでしまった…という感じの、救いようのないほどの悲しい詞。
ホントに死んじゃったわけじゃなくて、「どうにもならない別れ」を「死別」に喩えたような感じ。

もしかしたら、本当に一歩手前まで行ったのかも。
愛する人の事を四六時中考えて、考えて、気が狂いそうになるほど考えて。

それらを経て、辿り着いた場所。河に喩えて。
悲しみの激流、流れは激しさを増して、時にはうねりを起こして。

上流は荒々しくて、流れも急で激流が多いけど。
下流になるにしたがって、穏やかになり、静かな流れになる。

「せせらぎ」なので、まだまだ下流ではないんだろうけど。
一時の安らぎというか、またいつ荒れるか分からないけど、優しい場所に流れ着いた。

 

消えない愛の道標 教えてくれ
   暗闇の中で聞いた貴方の鼓動
      何故か優しく 何故か重く 何の曇りもない

 

どうすりゃいいの第二段。

タクロウ真骨頂。
歌い上げるテルさんも真骨頂。

琢:「俺が歌い手だったら、こんなにクサイ歌は歌わない」
照:「俺が書き手だったら、こんなにクサイ詞は書かない」

この滅多にお目にかかれない不思議な関係だからこそ歌える、典型的な箇所かも。

消えない愛の道標。
消えない愛、か。

何度もサヨナラを繰り返したなら、そのたびに愛も消えていったんだろうな。
今度こそ、本当に今度こそ、消えないで欲しい。行かないで欲しい。
もう、「サヨナラ」はたくさんだ。
そんな風に、感じました。

「サヨナラの意味が分かる日」っていうのは。
「絶対に決別できない存在を見つけた日」というような気がする。

「何度も繰り返すサヨナラ」は、本当の意味での「サヨナラ」ではなくて。
絶対に失えないものを見つけた瞬間、「サヨナラ」の意味が分かるんだと思う。

数の問題じゃない、たったひとつの「失えないもの」に気づくかどうか。
ひょっとすると、その失えないものを守るために、他のものを失ってきたのかもしれない。
代償、として。そして、その代償がもたらす痛みに傷ついてきたならば。
無意識に、意味は理解ってたはず。

道標。
「道の行き先や目的地までの距離などを示して道端に立てるもの。」
行くべき道を示してくれる道標。
決して消えない、道標を。

迷った時に、どこへ行けばいいのか、何をすればいいのかを教えて欲しい。
基準…だよね。道を指し示してくれる、なくてはならない存在。

そして、それは、あなたそのものなんだ、と。

「貴方の鼓動」。
鼓動が支えているものは、命。
優しく、重く、曇りのない鼓動…あなたの命が、暗闇の中でもハッキリと聞こえる。

「暗闇」は、物理的な暗闇のほかに、先の見えない現在と未来って意味も含まれてるような。
「HOWEVER」にもある「暗闇」。不安に苛まれて、光が射さなくなってしまった心。

けれど。

あなたがいる。

 

ただ存在るだけで
   そして それは 何の曇りもない

 

心の暗闇に、たったひとつの存在が呼吸をしている。

ただ、あなたがいてくれるだけで、それ以上のことはないんだ、と。
死んでしまうような…心潰えるような愛し方を経て、どうにかして傷つけ合うだけの日々を越えて。

あなたの優しさ。
あなたの命の重み。

あなたが存在してくれているという、たったひとつの真実に、一片の曇りなどない。

20021216