昼下がりの下町。 天気は清清しく、外でぼんやりとするには丁度良い按配である。 庭先に置かれた腰掛に碁盤を置いて二人の若者が今夜の酒代を賭けて勝負をしていた。一人は捻り鉢巻に上着を引っ掛けた町火消しの天化。もう一人は着流し姿の侍の姫発である。 二人は長い付き合いで互いの酒量の多さは承知しているので負けると痛い出費になる事は十分承知している。碁盤を穴が空くほど見つめて真剣に勝負に夢中になっている。 ぱちり、小気味の良い音を立てて発が白石を置く。 すると天化の表情が見る間に一変した。それを見て発はにやにやと笑う。 「どうした天化?早く次を打てよ」 「ちょ、一寸待つさ」 「いや、待てねえ。ほら、次はどうした?俺が目を作るぞ」 「やっぱりそういうことか…ココを俺が守りに入っている間にそっちを切り込んで目を作るつもりさね」 「分っているならどうにかしろよ」 「だから待てって言っているさ」 「俺は気が短いんだ、早くしろ」 天化は焦らせると冷静さを失う性格であるのを知っている発はわざと彼を追いつめる。試合に夢中になってすっかり冷めてしまった茶に手を伸ばし、一口含んで目を左右させている一つ年下の友達を余裕の態度で見た。 顎に手を当て、右手で黒の碁石を弄びながら天化は絶体絶命の局面をどうすれば打開できるか必死に考えていた。しかし碁盤の黒白の石は先ほどの発の一目で圧倒的に白石が有利な展開になってしまった。 「畜生…。これじゃあどうやってもダメか。分ったさ、俺の負けだ。今夜はおごるさ」 「毎度っ。最近上野の近くで見つけた小料理屋の娘が結構可愛いんだよ、其処行こうぜ」 酒よりも女の方が好きな発は既に目が嬉々と輝いている。 天化はいまいましげに脇に置いていた煙管に火を点ける。と、数歩先の角から人が笑いながら歩み寄るのを見た。 網代柄の着流しを着て、桜色の羽織を肩にかけた男は派手で嫌でも目に付いた。 「よ、久しぶり」 普通の男よりも頭二つ分は飛びぬけている長身かつ大柄な侍は片手を挙げた。 その声につられて発も身体を動かして背後を見る。馴染の姿を見つけて表情を変える。 「飛虎じゃねえか」 「久しぶりさね!」 天化や発よりも年上の飛虎は彼らには無い貫禄を備えていた。片手を上げてにやりと笑う。 履物をぺたぺたと音を立てながら歩き、天化の隣に腰掛けた。 天化の肩越しに碁盤を覗き込む。 「お前、また負けたのか」 「もうちょっとあんたが来てくれたら負けなかったのに」 「済まねえな、なかなか帰してくれなくてよ…」 と、言うと飛虎の顔がだらしなく緩んだ。 発が急に反応した。 「今度は何処だよ」 「品川。ちょっと遠いけど飯盛りもなかなか良くってよ」 「ちぇっ。良いよなぁ、あんたは羨ましいぜ」 天化は二人の会話を理解出来ずにきょとんとした顔をする。 「品川がどうしたのさ?あの宿街に美味い飯屋でもあるのか?」 飛虎と発は互いに顔を見あわせた後、にやにやと笑った。飛虎は天化の肩を叩く。 「お前なぁ…もう18歳なんだし、もうちっと大人の勉強しろよなぁ」 「いやいや、逆にこのままオクテのほうがお前らしくて良いと思うぜ」 「相方の発はこんなに女好きなのになぁ…」 「あのな、品川には飯盛り女がいるわけだ。わかるか?飯盛り女って。白粉が色っぽい女のことだぞ、天化」 流石に其処まで言われれば男女のことに奥手な天化も飛虎が何をしてきたのか理解出来た。顔が酒を飲んだように赤くなった。 「わ、わかっているさっ」 飛虎と発はムキになっている天化をみると更にからかおうとするが、そこに元気な町娘が現れた。 「あらっ、飛虎さん!」 三人の前に現れたのは火消し組の頭の娘だった。蝉玉は胡蝶の紋様の振り袖を着てとにかく目立つ。この下町の小町娘は可愛いが元気が有り余っていた。 発と飛虎が天化に絡んでいるのを見ると蝉玉は二人ににじりよった。 「ちょっとウチの天化を虐めない頂戴よっ。やだ、飛虎ったら何で女物の羽織なんか着てるのよ…また女の所に行って来たのねっ!」 「いやいや、俺が男前だから女達が放っておいてくれないんだよ」 「ふん。私の好い人には負けるわよ」 男達三人は堂々と言う蝉玉に呆れきった顔をする。材木屋で奉公中の土行孫とくらべればどんな男でもマシに見えるはずだ。デブ・チビ・だらしが無いと三拍子揃っている姿を三人は想像してげんなりした。 飛虎は引きつった笑みを浮かべると相槌を打った。 「あ、ああ。あいつはなぁ」 「そうさね…。ちょっと違うさね」 「ははは…」 虚しい苦笑いやらがあたりに響くと家内にいた人達も顔を出し始めた。 子守をしていた少女や、家事をしていたおかみさん、家で仕事をしていた職人などがわらわらと出て来て、久しぶりに町に現れた飛虎を歓迎する。 「お、飛虎さん久しぶりだね」 「一体何処ほっつき歩いていたんだい?」 「どうせ女のところでしょ?」 「女だったら俺の妹紹介してやるよ、今年で15だ良いケツしているぞ」 「おりょうちゃんよりも私の方が可愛いやい。あと3年待って、良い女になるからっ」 「どうせ今回も振られたんでしょ」 「いや、金が無くなったんだろ?で、女に貢げなくなった。違うか?」 わいのわいのと話し掛ける早口の下町言葉に飛虎は笑った。この話し方を聞くとこの町に帰ってきたな、としみじみと感じる。 「でも最近は吉原も寂しい限りらしいなぁ」 そう言ったのは桶屋の隠居した老人だった。今は孫に夢中だが、以前は相当の女好きだったらしい。 「…というと?」 「ほら、あれだよ。例の辻斬り。最近じゃ夜中には誰もが恐くて出歩かないから吉原も向島も客がすっかり減ってしまっているらしい」 「成る程…」 と、言って飛虎の目が鋭く光ったのを誰も気付かなかった。直にいつもの柔和な表情に戻る。 「ま、俺は品川にいたから楽しく遊べたけれどよ」 すると其処にいた人達はどっと笑い出した。 「こんな有り様じゃ美人を見られなくなって残念だろ?」 発は隠居に向かって言った。すると隣にいた簪職人の男が手を左右に振った。 「そうでもないんだな、これが。別嬪なら飛び切りの奴が最近越して来たんだよ」 と、言うと天化をはじめとした住人が大きく頷いて同意した。 しかし住民ではない発と飛虎は首をかしげた。ちなみに発は隣町の武家屋敷に住んでいる。 途端に蝉玉が目を輝かせて話す。 「そうそうっ!最近引っ越してきたんだけど凄い美人なのよ」 「ちょっと愛想は無いけど礼儀正しいし、手先が器用だし」 「色白ですらりとしていて歌舞伎の女形だって裸足で逃げ出すような美人だよ」 「身寄りの無い一人もんだけど早く結婚すれば良いのにねぇ。あんなにいい子なんだから相手なんて直ぐに見つかるはずなのに」 話し好きのおかみさん達が一同に頷く。「そうそう」「本当にそうよねぇ」「今度紹介してあげましょうよ」 発はまだ見ぬ引っ越してきた美人に好奇心をかきたてられた。天化を人差し指で呼び寄せ、耳元に囁く。 「おい。その美人はどうなんだ?」 「え?そ、それは…美人だと思うさ」 「そうかそうか。歳は幾つだ?服はどんな感じだ?」 「多分俺達よりも少し年上だと思うさ。服は…いつも仕事着着ているから良く分らないさ」 「なんだ、髪結いでもやっているのか?」 「いや、そうじゃなくて…。それよりかさ、あんた勘違いしているさ」 「はあっ?」 「お、噂をすれば帰ってきたな」 隠居が首を伸ばして通りの突き当りを見る。その声につられて全員がおしゃべりを止めた。 一本道から歩いてくる黒い服を着たその人は仕事道具を左手に持って軽やかに歩いてくる。蝉玉が手を振るとその人も軽く右手を振ってみせる。そして微笑した。 「笑うと随分可愛いな」 飛虎が呟く。蝉玉が本人の耳には届かぬように小さな声で返事をする。 「そうでしょ?本人には自覚ないみたいけど凄い美人でしょ」 「ああ…」 そう言っている間に職人は人が集まっている腰掛の前に来て足を止めた。 「太師屋」と書かれた道具箱を地面に置く。箱からはみ出た長鋏などから植木職らしい。仕事帰りらしく結んだままの髪を解くと頭を左右に振った。淡い金色の髪が軽く揺れた。 そして首にかけていた手拭を職人らしい仕草で腰にかけると大屋のおかみのおきんに話し掛けた。 「皆さんどうしたんですか?こんなに集まって。何かあったのですか?」 伸びのある、中性的な声。はっきりとした話し方で下町訛りが余り無い。 おきんは整った顔にじっと見つめられたせいか年甲斐も無く頬を桜色に染めた。 「いやね、久しぶりに馴染の人がやってきたのよ。あら、もしかすると飛虎さんだけじゃなくて発ちゃんも初めて太師屋さんに会うのじゃないかしら」 と言っておきんは腰掛の二人を手で示した。 太師屋は腰掛に座って自分を見上げる見覚えの無い侍二人に頭を下げた。 「どうも。初めまして。一週間ほど前に越してきました聞仲と申します。見ての通り植木や庭を生業にしております。どうぞ宜しく」 ぺこりと頭を下げた聞仲に飛虎も軽く頭を下げ返す。 「黄飛虎だ。一応刀は指しているが家督も継いでいないので無禄の無頼だ」 「そ、家に居づらくなって女にも振られるとここにやって来るのよ」 「蝉玉、余計な事言うなよ」 「だってホントじゃない」 また一同が笑い出した。しかしその中で発は呆然と聞仲を見上げている。隣の天化が異変に気付き、発の顔を覗き込んだ。 「どうしたのさ?」 「天化…」 「何さ」 「此れが…この庭師が例の別嬪なのか?」 「他に誰がいるさ」 「お、お、おっ」 「尾?『お』がどうしたさ?」 喉から、搾り出すような低く潰れた声だった。 「男じゃねえか…」 ほっそりとした身体つきをしていて、空のような青い瞳に金糸のような髪、初雪のような白い肌をした太師屋聞仲は確かに美しかった。しかし、黒の半纏に黒の股引と地下足袋の姿は美しい、というよりもいなせ(粋で威勢が良く男らしい)である。 発の想像中にいた別嬪の姿は音を立てて崩れた。しかし聞仲は微笑を浮かべると会釈をした。 その笑顔が男にしてはあまりにも整っているので発は更に切ない気持になった。 「…飛虎よりかまだマシだとは思うけど同じく無禄の侍だ。冷や飯食いと言われるのが面倒なのでココに来てダチの天化とつるんでいる」 「そうですか。宜しくお願いします」 礼儀正しく頭を下げる聞仲を姫発は泣き笑いの表情で見返した。 |