旗本退屈侍捕り物帳

人斬ノ唄

<四>

聞仲が朝目覚めると飛虎は隣にいなかった。
座布団は元の位置に戻されていて、傍らの文机には書き置きが残されていた。
右上がりの癖のある筆跡で簡潔な書き方だった。王義之(中国六朝時代の筆聖)の系統ではあるがかなり自己流になっている。

「品川に羽織を返しに行く。朝飯を作っておいたので食べてくれ。 飛」

聞仲は眉間に皺寄せ、首を傾げながら台所に行くと味噌汁と魚の煮付けがあった。白飯をよそい、卓の上に乗せると暖め直した味噌汁と煮付けを恐る恐る口に含んだ。
途端に彼の表情が驚きに変わる。
思いがけず美味い。普通に食べられる食事を期待していたが町の飯屋よりも美味い。薄味の味付けも江戸生まれではない聞仲には丁度良い味わいだった。
長身だが食が細い聞仲だったが飛虎の作った朝食を全て平らげた。
一体飛虎はこの様な料理の腕前を得たのだろうかと思いながらも聞仲は飛虎に心の中で感謝すると仕事着に着替えて家を出た。



*****



一方黄飛虎は品川に馴染みの女に羽織を返すと引き止める女の手をすり抜けて牛込に向かった。
駕籠を使ってもおかしくはない距離では有るが長身の飛虎では割増料金を取られるし健脚で足が速いので駕籠に乗ろうが歩こうが所要時間はさほど変わらないので徒歩で向かった。
当時牛込一辺は江戸の外れにあたりやや高台の場所であった。ちなみに本編から百年ほど後にはこの辺りに新撰組の近藤勇、土方歳三、沖田総司を生み出す天然理心流試衛館道場が存在することになる。
飛虎がたどり着いたのは剣術道場であったが、名前は試衛館ではなかった。
勢い溢れる流麗な筆跡で書かれた看板は「青峯流紫陽館」と書かれていた。門をくぐる前から竹刀の音と掛け声が飛虎の耳に届く。
庭の飛石を一つ飛ばしに進み、玄関を開けた。

「御免。誰かいねぇか?」

長い廊下の奥から現れたのは胴着を着た若い男だった。
男は飛虎を見ると少し大袈裟に表情を変えた。

「どういう風の吹き回しかな」

飛虎は挨拶もなしにこのような事を言われても一向に表情を変えない。軽く肩をすくめる。

「一応俺も此処の門下生なんだけどなぁ、お師匠さん」
「何年前の事を言っているんだ。疾っくに除籍していたぞ。第一、お前は此処で習う必要など―――」

其処まで言いかけたが男は背後に人の気配を感じて口を閉ざした。振り向くと彼の門下生が男を呼びに来ていた。

「道徳先生、天化君が指南を賜りたいとのことでございます。お戻り頂けませんでしょうか」
「ああ分った。悪いが先に言って俺の面と胴を用意しておいてくれ」

門下生を先に道場に戻らせると男は飛虎に向き直った。

「とにかく用件は後で聞こう。最近天化の腕が随分上達しているから見ているがいい」
「随分三代目の貫禄がついてきたな、道徳サン」

飛虎は履物を脱ぐと道徳の後を続いて道場に向かった。



青峯流紫陽館は現当主の道徳を含めて三代続いた剣術の一派である。
歴史は浅いが素直な太刀筋であり、町人にも門戸を開いているので規模は小さいながらも人気はそれなりにある道場だ。特に、道徳は寛容というか常識とかに拘らない性格で「年功序列」等という言葉を無視して実力を尊重するのでまだ二十歳にもならない町人の天化に目録を与えて師範代をさせてしまった。流石にこの事に関しては飛虎も驚いた。
本来ならこの様な無茶をすれば道場はたちまち潰れてしまうが、道徳は江戸で知る人ぞ知る腕前を持っていたので以前と変わらず小さな道場に通う者は絶えなかった。

さて。もはや日常茶飯事となった道徳と天化の試合は前者の勝利で終わった。
天化は悔しそうに頬を赤らめていたが、暫くすると猛然と練習を始めた。そしてそれが道場全体に熱気を与え、門弟達も勢い良く立会いや素振りを始めた。
その光景を道徳は満足そうに、飛虎はさして興味の無い様子で眺める。

「なあ。あんたはどう思う」

沈黙を破ったのは飛虎だった。壁に背を預け、視線は練習風景に向けたままで人に注意されないよう唇を小さく動かす。道徳もまたそれに合せて独り言のように返事をした。

「何の事だ」
「辻斬りだよ。どんなヤツが仕手だと思う」
「かなりの使い手と見て良いだろう」

それは飛虎には予想しきっていたものだったが、次の道徳の発言には心から驚いた。

「…なんせ平野が不意を突かれたとはいえ、斬られたのだからな」
「斬られたヤツを知っているのか?」
「以前、暫くの間だが此処に通っていた。余り良い印象はもっていないがな」

さして大した事を言っていないと思っているので道徳の顔は平然としていたが飛虎はすっかり動揺した。腕を組んでじっと床を眺める。

「…もう少し詳しい話を聞かせてくれ」
「話してもいいが稽古が終わってからで良いか」
「構わない。飯でも食いながら聞かせてくれ」
「分った」



*****



「…で、なんでおめぇが付いて来るんだよ」
飛虎は三角目で天化を憮然と睨みつける。しかし天化は道徳の隣でニコニコと笑っていた。
「鍋は人数が多いほど美味しく食べられるさ」
「そうだな、天化。それは言えるかも」
「おめぇは黙ってろ」

飛虎は道徳を黙らせると天を仰いだ。
辻斬りの被害者の一人が道徳の門弟に通っているのを偶然知れたのは本当に僥倖である。また情報を得る為に飯をおごるくらいは当たり前の情報料である。 …しかし何故天化が動物的勘でそれを探り当てて同席しているのだろうか。
両国の「ももんじや」は獣肉、特に猪肉をおもに扱っている鍋料理屋だ。両国橋を渡るまで飛虎は何度も天化を誤魔化して家に帰らそうとしたが遂に河を渡り、店に入り、飛虎と道徳の前に座ってしまった。
因みにこの「ももんじや」は現在もあり、季節によっては熊肉も食べる事が出来る。

所詮は他人の財布が軽くなるのであって、自分の懐具合が変化するわけではない。
そう考えている道徳は天化に「沢山食べろよ。飛虎の奢りだからな」等と勝手な事を言ってしまう。半ば自棄になった飛虎は酒をぐびぐび呑んだ。
夢中になって嬉しそうに鍋をつつく天化を横目で確認すると道徳は低い声で飛虎に囁いた。

「そう怒るなよ。天化は鍋に夢中だ。平野の話はする」

ぐい飲みの酒を半分ほど飲むと道徳は話し始めた。

「平野十兵衛は以前、北辰流を習っていて筋は良かったが喧嘩っ早くて破門されて一年前にウチに入門したが博打に嵌まって禄を失い、脱藩と同時にウチも辞めた。その後はゴロツキばかりのいかがわしい道場の師範になったらしい」
「剣の腕はどんなもんだ」
「悪くない。二日酔いで酒臭い息を吐きながらも天化から一本取れたほどだからな」
「それは凄いな。その頃には天化も目録とる寸前だったじゃねえか」
「ああ。その剣のお陰でかなりの狼藉をしても長い間禄を奪われずに済んだそうだ」

其処まで言うと道徳は酒で唇を湿らせた。

「オヤジ、追加注文していいさね?」
「ああ?お前の好きにしろ」
「やった。すみませーん、追加頼むさっ」

店員になにやら注文をし始める天化をちらりと見たが、飛虎には辻斬りの被害者の情報の方が大切だった。声を落して道徳に問い続ける。

「…で、そいつが恨みを買う事とか有ったのか」
「分らない。確かに酒と博打は好きだったが、強かで卒のない男だった。恐らく闇討ちにされるほど恨みを買うほどの悪人でもなかったはずだ」
「成る程…」
「俺が思うに平野を斬った奴は何か理由が有って夜に斬ったのではなかろうか」
「どう言う事だ」
「もし奴に恨みが有ったり単に腕を試したいのならばその道場に行けばいいではないか。平野を弄って斬るだけの腕が有るならば簡単なはずだ」
「それもそうだ」
「って事は、その仕手は表立って斬る事の出来ない理由があったのではと思うのだが」
「つまり堅気の奴が仕手か」
「可能性は無いことはねぇだろ?」
「そうだな…」

道徳は手元に残していた酒の残りを一気に飲み干す。
飛虎は腕を組み、思案する。確かに道徳の考えには筋がしっかりと通っている。今まで単に腕試しの事だと思っていたが町人が斬られた事も考えると有り得ない事ではない。
そのままじっくりと考え込もうとしたその時、店員が卓の上に皿を置いた。どかりと大きな音がして山盛りの肉が三人の前に出される。

「追加猪肉六人前お待ちっ。兄ぃさん達体もでけぇ事だけ有って沢山食いやがるね。ま、どんどん食いねぇ!」

飛虎と道徳は尋常でないその量に目を奪われる。天化は嬉々とめを輝かせて肉を手際良く鍋に入れた。

「て、天化っ!」
「何さ、オヤジ」
「オヤジって呼ぶなって言ってんだろ!…っじゃなくてお前こんなに注文しやがって!」
「好きなだけ良いって言ったさ」
「はっはっは!頼んでしまったんだから仕方ない、どんどん食べろ天化!」
「道徳、人の金だと思っていい加減な事言うんじゃねぇ!」


結局、追加された肉の大半は細身の癖に巨食漢な天化の胃に収まってしまった。
道徳は爽やかに笑い、猪肉を味わった。
飛虎の財布は隅田川に浮かびそうなくらい軽くなった。



*****



店を出て家路を歩く天化は満腹の腹を抱えながら道徳と夜道を歩く。
「なあ師匠」
「なんだ?」
「どうしてオヤジは紫陽館を辞めたさ?真面目に剣を握ってはいなかったけど腕は悪くなかったと思うさ」
「…まあ本人がやる気が無かったから仕方ないだろう?」
「ん…。でも勿体無いさ」
天化は子供のように拗ねた表情をする。道徳は内心天化の勘の鋭さにどきりとした。

道徳は天化に連れられて始めて飛虎が道場に来た時から彼の剣才に気付いていた。
数回の手合わせで彼はいい加減に竹刀を振っているのではなくわざと下手なふりをしている事も分ったし、彼の習っている流派も推測できた。
道徳は以前、江戸城で御三家の指南役と手合わせをした事がある。その男と飛虎の剣裁きは同じだった。むしろ飛虎の方が時折見せた、隠し切れない動きの素早さと太刀裁きは指南役よりも上の実力を持っているように思えた。
その時、『無禄の無頼』と名乗っている飛虎の身元を道徳は想像出来たが本人に敢えて問う事は止した。真実を知れば自分の小さな生活が無くなる事は容易に分ったから。
道徳は何も語らなかったが飛虎はそれを察知し、道場に訪れる事もなくなった。
以来二人は何も無かった様に天化を間にして付かず離れずの関係を保っている。
今回の辻斬りも何か飛虎は調べているようだが、その理由を道徳は考えたくも無かった。
自分には沢山の門弟と道場が大切だった。

道徳は思考を打ち切ると目の前の茶屋を指した。
「天化、甘酒でも飲むか?」

飛虎の事などすっかり忘れて、天化は垂れ下がる暖簾を輝く目で見つめる。

「俺はあんみつの方が良いさ」
「わかった、奢ってやるよ」
「やった!」

天化は元気良く茶屋に向かって走っていった。







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