天化の野郎…。思いきり食いやがって。あいつには遠慮って言葉はねえのかよ。 親はどう言う躾を…ってあいつの親は流行り病でとうにいなかったな。 小せえ弟を一人で養っていて大変だとは思うけどあの貧乏性はどうにかならねえのか?まったくよぉ…。 飛虎は不満を腹に抱えながら両国を離れていた。沢山の船が行き交う隅田川沿いに道を南下して行く先は深川である。 日本橋方面から深川へ歩いて行くのならば永代橋を渡ってゆく。余談だが現在の永代橋よりも当時の橋は六十間(百メートル)ほどずれた場所にかかっている。 現在もそうだが深川(門前仲町辺り)は日本橋近辺とまた違う独特の雰囲気を持った町で粋が町全体に感じられる。 深川といえば吉原に続く繁華街であり、気風が良く男名を名乗る辰巳芸者が有名だ。因みに辰巳とは深川が日本橋より南東(=辰巳)にあったことから由来する。芸者とは基本的には三味線などの芸を売るだけで春をひさぐ必要はない。(中には客と寝る者もいた) 勿論、芸者以外に岡場女郎(吉原以外の幕府未公認の女郎)もいたがやはり深川といえば素人の雰囲気を持った気風の良い芸者の町であり、飛虎が向かったのも芸者の所であった。 三味線の音があちこちから聞える町並みを右や左に曲がり着いたのは<竜吉>だった。 竜吉とは最近人気を得ている芸者が独立して起した店だ。噂によるとさる大名の御落胤とも言われている竜吉は噂の真偽はともかく美貌と三味線には定評がある。 ただ、体が弱いのであまり座敷に上がらないが、腹違いの弟が出資をしているので無理をする必要が無いらしい。それ故、滅多にお目にかかれない竜吉に熱を上げている風流人は数知れない。 飛虎が中に入ると丁度竜吉は出掛ける所だった。 妹分の碧雲を右に従え座敷用の着物を纏った竜吉は滴る水のような輝きを放っていた。飛虎は暫くその艶姿に見とれる。 竜吉は飛虎を見ると飛虎にこりと笑った。 「おや、久しぶりだね」 「ああ。体の調子はどうだい?」 「最近は平気だ。こうやってお座敷にも出掛けられる」 「そうか。良かったな。玉鼎の旦那も喜ぶな」 飛虎が竜吉の馴染みである豪商の若旦那の名を出すと彼女の頬が桜色に染まった。 「竜吉姐さんにそんな顔をさせる旦那に妬けるな。ま、俺にはあいつがいるけどよ」 「お前の好い奴は丁度お座敷から帰ってきたところだよ」 「そりゃあ良かった」 「久しぶりだからあの子も喜ぶだろうよ。邪魔者にならぬよう私は退散するよ」 「稼いできな、姐さん」 「それでは」 竜吉は待たせていた駕籠に乗り出ていった。 飛虎は出てきた店の少年に挨拶代わりに手を挙げた。 「御園はいるか?」 「お師匠様ならお部屋にいます。お呼びしましょうか?」 「いや、直ぐに帰るから俺が行くよ。酒も要らねぇから部屋に来なくて良いぞ」 「分りました、待っていますね!」 大きなどんぐり眼の少年は花柳街には不釣り合いな元気な返事をした。 通い慣れた店に上がると飛虎は一番奥の竜吉の次に良い部屋の前に立つ。 「御園、入るぞ」 「誰じゃ?」 「飛虎だ」 同時にふすまを開けると其処には島田姿の美少女がいた。地味な柄の着物を着ているが、それが少女の美しさを引き立てた。 「よ、久しぶり。相変わらず上手く化けてやがるな」 御園はきりりとした眉を不機嫌に潜めた。 「おっと。此処ではそれは禁句だったな」 飛虎は肩を竦めると遠慮も無しに部屋に入り、後ろ手で襖を閉める。 御園は手にしていた三味線を傍らに置いた。火鉢に置かれていた土瓶を手にすると自分と飛虎の分の茶を入れた。 「久しぶりじゃのう」 十六、七にしか見えない少女のものとは思えない爺くさい話し方を御園はした。座敷に上がっている時は芸者言葉を使っていたが、飛虎には使わずに普段通りに話す。恐らく彼女と親しくない者が聞いたら卒倒するであろう。 「まあな。かれこれ数ヶ月ぶりか。…お前は相変わらずのようだが」 茶を飲みながら飛虎は目の前に佇む彼女の美しい姿を見た。否、正しくは「彼女」ではない。御園は臍三寸下には飛虎と同じ物を持っている男であり、年齢はとうに二十歳を過ぎている。 この弁天小僧ばりの男は幾つかの顔と名前を持っている。その一つに歌舞伎の売れっ子脚本家・呂望という肩書きを持っており、巷の恋愛を取り扱う呂望の脚本は人々の感情を巧みに表現している。 それも当然である。彼は実際に街中に溶け込み、はたまた花柳街に出入りしているのだ。つまり女物の着物を着て島田の鬘をつけ、御園という芸者になりすましているのである。因みに御園という権兵衛名(深川では源氏名の事をこう呼ぶ)は望を逆さまから読んだだけだ。 「最近はどうだ?いいネタでも見つけて脚本(ホン)でも書いているのか」 「だぁほ。ネタが有ったらこんな所には居らぬわ。ネタが無いから座敷に上がっているのではないか」 「お前さんでも書けねぇ時があるのか。珍しいな」 「うむ…最近忙しくての。それどころでは無かったのだ」 御園の表情が微かに曇った。 飛虎は其処に何かを感じ、話を向ける。「どうしたんだ?」 「友達、とまでは言わぬがそれなりに顔馴染みの同業が死んだのじゃ」 「なあ、もしかして新見大蔵って奴か」 「知っているのか?」 「いや。知っているのはお前と同じ戯曲家で深川の外れに住んでいる事だけだ」 それだけ言うと頭の回転の良い御園は直に飛虎の意図に気付いた。 途端に興醒めした顔をして飛虎を見る。 「…なるほど。久し振りに来たかと思ったら辻斬りについて知りたかったのじゃな」 「そういうことだ。おめえさんの知っている事を教えてくれねえか」 「知っているも何も…。さっきも言った通り、わしと新見は特に仲が良いというわけではなかったのじゃよ。部屋に篭るのが好きな男じゃったし性格もわしと対照的だったのでのぅ」 「恨みを買うような性格ではなかったか」 「それはないな。目立たぬ奴で人付き合いもさほど有るわけでもなく、脚本の方も特に売れているわけでもなかったし。…おおそうじゃ、最近変わった事が一つだけ有ったわ」 「勿体ぶらずにさっさと言えよ」 「あやつ、実は恋人が出来たらしい。しかも堅気の町娘だ」 「名前は?」 「それが教えてくれなくての。あの時はわしも偶然茶屋で会って世間話のついでに聞いただけだったので特に知りたいとも思わなかったから敢えて名を聞こうとも思わなかったのじゃ」 「何だよ…。まあいい、その町娘が何をしていたのかとかは言わなかったのか?」 ずいと肩を前に出して御園に近寄り見上げる。御園は細い指を唇に軽く当てて記憶を手繰る。何かを思い出した御園は顔を上げた。 「櫛屋で働いておるぞ。『結婚を申し込む時には彼女の店で買おうと思う』と言っておったわ。唯一あいつが惚気たときじゃったわ」 「櫛か。何処の店か、せめて場所は分らないか」 「偶然彼女が日本橋であやつの草稿を拾った所から知り合ったと言っておったから恐らくはその辺りの店じゃろうな」 「草稿を拾ったって、…そいつの仕事のタネじゃねえかよ」 「そうなのじゃ。あやつは何でも落す奴でのう…わしと知り合ったのもあやつの財布を拾ってやったからなのだよ」 御園は彼の不器用な一面を思い出し口元に微笑みを浮かべた。 飛虎はその顔に目を奪われかける。自制して視線を畳に下ろすとふとある事に思い付いた。 「もしかすると…って事か」 「何?どうしたのじゃ?」 御園が顔を覗きこまれると飛虎は慌てて手を振った。 「何でもねぇよ。その、なんだ。色々分ってきたって事だ」 「またそうやって一人で考え事をしておったのじゃな。わしと言う者が目の前にいるのに」 「そう言うなよ。今は仕事中なんだよ」 「無禄のおぬしがのぅ?」 流し目で飛虎を見る御園。御薗もまた飛虎の隠された身元を知っていたのでわざと嫌味を言った。飛虎は逆に言い返す。 「こんな所でそういう事は言うなよ。お前だって例の譜代様と…だろ?」 「…わかったわい。もうあやつのことを言うでないっ」 御園は気まずい表情をすると茶を飲んだ。飛虎は湯飲みの茶を一気に飲み干した。 「さて、と。今回は相棒がいるからそいつの所へ戻るよ」 「おや。もう帰ってしまうのか?折角新しい唄を聞かそうと思ったのに。常盤津の師匠と作って自信作だったのじゃよ」 そう言って瞳を悲しく潤ませて見上げる御園。 艶やかな美しさに飛虎はまた座り込みそうになるのを堪え、裾を払った。 「そんな色っぽい顔するなよ。思わずクラリときちまうだろ?まったく、お前は男にしておくのが勿体無ぇよ」 竜吉の美しさが水の輝きならば御園のは春の夜に吹く胸騒ぎを起す甘い風だ。 正統派の竜吉の様な一目で分る辰巳芸者ではなかったが、御園は男心をかき乱す色香があった。飛虎の好みでは無いはずなのに時折見せる仕種に押し倒したくなるような衝動に掻き立てられる事がある。今も美しいが厳格な相棒の姿が脳裏に浮かばなければ危なかったであろう。 飛虎は苦笑いを浮かべた。 御園はまんざらでもない表情を浮かべて飛虎を見送る。 「ふふ、おぬしは相変わらず口が上手いのう。まあよい、また辻斬りの事で聞きたければ…そうじゃ。もう一人辻斬りに遭った奴がおるぞ」 急に口調を変える御園。真剣な表情に飛虎も苦笑いを引っ込めた。 「常盤津のお光。あやつもわしの知り合いじゃったわ」 「何だって?じゃあ、新見とお光は知り合いだったのか?」 「そうではない。確かにわしとは知り合いじゃったがあやつら同士は顔を会せるどころか名前も知らぬわ」 「間違いねぇな」 「もし知り会いだったのならば無料で座敷に上がらせても良いぞ」 「…そうか。有難うな、時間が会ったらまた来るからよ」 「来る時には武吉に伝えておいてくれ」 「武吉?ああ、あの元気の良い坊主か。珍しいなお前が人を雇うなんて」 「正直者で母親が病弱だから子供ながらに苦労をしており色々使えるやつでのう。重宝しておるよ」 あれは正直の上に馬鹿が付くのじゃねえのか?と言いたかったが飛虎はそれ以上何も言わずに襖に向かった。「じゃあな」と軽く挨拶すると襖を閉めた。 **** <竜吉>を出た飛虎はまた複雑な細い路地を左右に曲がると永代橋を渡り、聞仲の住む家に帰った。 その時、本人は気付いていなかったが飛虎の姿を見掛けた者がいた。 川の上にいた姫発である。彼もまた辰巳に遊びに行こうとして船に乗っていたのだ。 現在の東京は川を埋められてしまい当時の面影は残っていないが、江戸の頃は川が町中に張り巡られおり、船が交通の重要な手段の一つとされていた。 先に書いたが徒歩でも深川に行く事は可能であったが、日本橋や神田から船に乗って行く事が風流人の間では粋とされていた。 二日酔いからやっと醒めた発は網代柄の着流しに着替え、粋な姿になるとまた遊びに繰り出していたのだ。ふと見た外の景色に一際背の高い目立つ男が飛虎である事は直ぐに分った。 店を出る時に借りた提灯が飛虎の顔を照らし、夜目でも見分ける事が出来た。どうやら進行方向からして飛虎は既に遊び終えて帰る所らしい。 姫発は暫く腕を組むと船頭に声をかけた。 「おい、悪いが行き先変更だ。<竜吉>に行ってくれ」 飛虎の持っていた提灯は<龍>の文字が書かれていた。 発はまだ<竜吉>に行った事がない。竜吉と言えば豪商達がこぞって座敷に呼ぶ売れっ子芸者であり、発が気軽に敷居を跨げるような気軽さはなかったのである。 発は飛虎の身元を知らなかったがただの無禄の侍とも思っていない。一体あの店に易々と通える飛虎とは何者なのかますます疑問が涌いてくるが今はそれについて考えるのを止した。 とにかく知り合いが<竜吉>に通っているのならば自分もそのツテを使って店に行く事は出来る、と発は考えたのだった。 「なあ、勝太」 再び船頭に話しかける。 「何でございやしょう」 「<竜吉>には竜吉以外に誰がいるんだ?」 「妹分の碧雲に赤雲…碧雲はさっき竜吉と一緒に座敷に上がっていって、赤雲は実家の親父の看病でいねぇはずでございやす」 芸者は座敷に上がる時は二人で上がる。たいてい大店でない限り一軒につき芸者は2,3人しかいないのが普通だ。となると飛虎の相手をした芸者とは一体誰なのか。 「他にはいねえのか」 「えーっとぉ…。ああ、いましたや、もう一人」 「どいつだ」 「どうやら自前芸者らしく、気が向いた時にやって来る奴が一人いますぜ。名前は…御園とか言ったはずだ」 「みその、か。可愛らしい名前だな」 発は未だ見ぬ芸者に期待を寄せて胸を弾ませた。飛虎が通うほどの芸者ならば美人に間違い無いはずだ。 「よし、竜吉まで急いでくれ!」 「よっしゃ、任せときな」 その後、飛虎と同じ柄の着物を着た発が御園を指名し、それを取り次いだ武吉が「網代柄のいなせなお侍さんがご指名です」と御園に言付けした。 それを再び戻ってきた飛虎のことだと勘違いした御園は座敷に通させてしまうが実際は発が居て驚き慌て、発は絶世の「美少女」に一目惚れしてしまう…と、言う話は本編から外れるので詳しい事は別の機会に書こう。 |