旗本退屈侍捕り物帳

人斬ノ唄

<八>

生ぬるい風が男の頬を撫でた。

人斬りを恐れて人通りの減った夜道に一つの提灯が大きな蛍の様に浮かんでいた。
音が無く、静かな夜だった。
人の気配を感じ、男は息を殺した。
四辻の角から影が現れた。長身で肩幅が広い袴姿の侍。


「待て」


声も体も全てに殺気が漲っていた。提灯を持っていた侍は一歩足を引いて間合いを取る。
ゆっくりと提灯を上げ、相手の顔を照らす。
薄らと見分けられた顔に侍は言葉を失った。殺気を漲らせた相手の男は顔を見られても驚いた様子はなかった。射るように自分を睨みつけていた。
その視線を受け止めながら侍は提灯を地面に置く。

「何故、その様な目で俺を見る」
「理由は貴様の胸の中にある」

提灯を置くと右足を大きく前に出して腰を落す。そして無駄だと心の中で思っていても口を開いた。

「待て。誤解だ」
「ほざくな、さっさと刀を抜け。抜かねば此方から斬る」

侍が柄に手をかけたと同時に男は上段で打ち込んできた。
抜きざまに刃で相手の剣を受け止め、半歩右に動いて勢いを交わす。
続いて正眼の構えになっている刀を利用してそのまま切り込む。侍はそれを難なく交わし左へ逃げる。


刃と刃がぶつかり、時に火花が散る。
荒い息遣い、左右に動く足裁き、低い気合の声が闇夜に響く。
男達は再び間合いを取って対峙する。


月が雲に隠れ、足元に落ちている小さな影が消えた瞬間、二人は再び地面を蹴った。

左右が入れ替わる二人。一本の刀が手から滑り落ちる。
侍が右腕を斬られた。低い呻き声が彼の唇から洩れた。しかし背後から相手が向かってくるのを感じると振り向いて短刀を抜いた。

「うおおおおおおっ」

手負いの侍の咆哮が優位に立っている筈の男の殺気に勝った。
相手の剣を気にもせず頭から丹田めがけて突っ込む。
しかしわき腹を深く抉るはずだった短刀は脇差の柄に手元を邪魔されて深く刺さらなかった。
刺された男は腹に押し付けられた頭を突き飛ばした。短刀が地面に落ち、突き飛ばされた侍は尻餅をついた。
腹を刺された男は怒りに満ちた目で相手を睨みつける。睨まれた侍は声にならない悲鳴の代わりに奇妙な息を吐いた。確実に手にしたと思った勝利を逃した侍は動揺し、怯えた。
刀を持つ男が一歩近づく度に侍は地面に手をついて後ろへ逃げる。

「貴様…奴等だけではなく俺も殺す気か…っ」

男の声は地の底から引きずり出された獣のような、低く恐ろしい声だった。
刺された腹を押えていた手を離し、両手で刀を持ち直す。
血に濡れた刀が上段に上げられ、正に目の前にしゃがみこむ侍に振り下ろされた。
その時だった。
きん、と金属音が響いた。二人の男の間に全身黒尽くめの影が割り込んできた。

あっけに取られていた侍は我に帰ると慌てて走り出した。
もう男は闇に解けた侍の後を追いたかったが突然現れた黒い影に阻まれて一歩も動く事が出来ない。


一人が消え、そして新しい一人が現れた。また夜道は二人になる。


互いの剣を全身の力で押えながら黒い影と男は睨み合った。月が雲の切れ間から顔を出し、弱い明かりが二人の顔を照らす。

刀を上から押し付けるのは顎に古傷のある無精髭。
それを下から受け止めている影は黒い布で顔を覆い月明かりで淡く光る青い目しか見えない。
刃同士がぶつかっている剣の根元には見事な麒麟の彫印が残されていた。刀身は月の光を浴びて妖しく輝く。
男はこの影が只者ではない事に気付いた。

その異常な出で立ちに無精髭の男は内心動揺する。
誰だ、こいつは。
上段から振り下ろした剣を下から受け止める技量と自分を圧倒する気迫。
それだけでこの黒い『影』が自分よりも使い手である事は瞬時に分った。劣勢を判断した男の行動は早かった。
剣に込める力を抜くと屈んでいる目の前の覆面を蹴り上げた。
側頭部を狙った足を『影』は刀を捨て、腕で受け止める。同時に蹴った男は背を向けて来た道を走り出した。
『影』も無精髭の男を立ち上り追いかけようとする。しかしその時、大きな足音が彼の足を止めた。

四辻の背後から出てきたのは黄飛虎だった。


「どうしたっ、辻斬りか!」


覆面姿の男は首を背後に捻る。振り向くと彼は一瞬動きを止めた。
近づく飛虎をじっと見ると、『影』は刀を仕舞い、飛び跳ねて壁を掴んだ。

「おい、待てよっ」

慌てて追いかける飛虎。
しかし『影』は壁を乗り越え、右手にならぶ屋根の上を音も無く飛び去ってゆく。
飛虎も右手に曲がり、走り出した。

「わぁっ」
「おおっ」

ところが角には人が立っていた。思い切り激突した二人は思わず声を上げる。
体格の大きい飛虎にぶつかられた相手は倒れかけたので飛虎はとっさに手を伸ばした。
飛虎が握った手は男の手だった。
改めてその顔を見る。飛虎ほどではなかったが長身で身なりの整った若い侍だった。

「怪我はねえか?」
「ああ、平気だ…」

飛虎は手にしていた提灯で青年の顔を照らした。
首を少し前に出して彼の顔を覗き込む。

「顔色が悪いが、具合が悪いのか?」

青年は顔を灯りからそう向けると、小さな声で「大丈夫だ」と短く答える。しかし汗をかき、顔には血の気が無い。心配になった飛虎が肩に手を伸ばそうとする。
だがその青年は騒ぎを聞きつけた隣人達が集まって来るのを察知すると飛虎の手をかわして走りだした。



小さな血溜りが出来た四辻で立ち尽くす飛虎。
その背後からは無数の提灯が集まってきていた。






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