旗本退屈侍捕り物帳

人斬ノ唄

<九>

黄表紙(洒落本)を読み終わった発はおもむろに口を開いた。

「なあ知っているか?キリンがまた現れたらしいぜ」
「キリン?」
飛虎は首をかしげて発を見返した。

「黒麒麟の事さ」
と説明してくれたのは発ではなく天化だった。右手の大福を齧りながら左手の緑茶を飲んでいる。実に幸せそうな表情である。

「最近見かけなかったけどまた夜に飛んでいるのを見たらしいさ」
「へぇ…」

飛虎は再び手にしていた小刀で竹を器用に削りはじめる。
視線は手元に落としながらも隣でのんびりとしている弟分達と話を続けた。

「で、それを見た奴ってぇのは誰なんだ?」
「俺の呑み仲間が出入りしている髪結床(床屋)の仲間から誰かが見たって噂は聞いたんだが誰なのかは知らねぇな」
「そう言えばそうさね。色々な場所で噂は聞くけど誰が見たかはよく分らないさ」

発と天化は不思議そうに顔を見合わせた。
江戸で何かしら事件が起こると麒麟が夜空に飛ぶ、という噂は江戸に住むものなら誰でも知っていた。但し人から人へと噂される間に麒麟を見た張本人は誰だかわからなくなっており、麒麟とは一体何者なのか誰も知らなかった。

「第一さ、黒麒麟って何者さ?」
「黒いんだろ?とんでもなく身軽で屋根の上を舞うように飛ぶって聞いたぞ」
「屋根の上を?随分危ないさ…あっ、何するさ!」

天化の食べかけの大福を彼の隙を突いて奪う発。盗まれた本人が気付いた時には大福は発の口の中におさまっていた。
口の周りに白い粉を付けて栗鼠(リス)の様に口を膨らませている発。天化は発の膨れた両頬を片手で押し潰して口を開かせようとしている。発も発だが天化は口を開かせて一体どうするつもりなのだろうか。飛虎は冷めた目で二人を横目で見る。

「その黒麒麟は何で夜に大江戸の町の上を飛ばなくちゃ行けねぇんだよ?」
「しょふいへばしょうひゃな(そう言えばそうだな)」
「俺も知らないさ。親父も知らないの?…って。コラっ、食べちゃ駄目さっ!」
「天化…諦めろよ」
「いやさっ、せっかく浅草まで行って買って来た大福だったのにーっ」
「ぐ、ぐるじぃ…」

大福をめぐる二人の騒ぎは大きくなる一方である。飛虎は手にしていた小刀で簡単に竹を削ると最後に息を吹きかけておが屑を払った。近くで陣取り遊びをしていた子供の一人を呼び寄せる。

「おい、貞吉」
「なんだいヒコさん」

5歳の子供に対して飛虎は大きな身体を器用に屈ませて視線を同じ高さにした。
たった今完成したそれを渡す。

「ほらよ。これでちゃんと空高く飛ぶはずだ」
「ありがとう!」
「よかったな」
飛虎は貞吉の頭を大きな手で撫でた。
立ち上り発と天化がいる腰掛に戻らず道を歩きだそうとする飛虎を貞吉は首をかしげて見上げた。

「何処か行くの?」
「ああ。聞仲と待ち合わせて鰻を食いに行くんだがあの二人には内緒だぞ」
「うん。おいら言わねえよ」
「じゃあな」


飛虎が鰻を食べにゆくとはつゆ知らず大福一つで大人気ない騒ぎをする若者二人。
貞吉はそれを複雑な気持で見た後、おもむろに飛虎が渡してくれたそれを両手で器用に回し、空に放った。


竹とんぼは勢い良く午後の江戸の青空に舞い上がった。



****



さて飛虎は以前行った十三屋の近くにある伊豆榮に向かった。
伊豆榮は現代まで続く鰻料理の店で、彼の気に入りの店の一つである。夕暮れの上野への道を飛虎はのんびりと歩いていた。
仕事を終えた職人や町人、夕食の食材を売り歩く行商人などが下町を左右に交差する。余談だが下町とは現在では江戸時代の情緒を残す町並みのことを指すが、本来は江戸城の下にある町の意味であるので浅草や深川等を下町とは言わない。

飛虎の眼は町並みを追っていたが、頭の中でずっと事件の事を考えていた。
既に浪人3人、町人4人が斬られた。そしてあの月夜の二人。
夜中に真剣を抜きあい、斬り合うとは尋常ならぬ出来事である。恐らく、今回の連続した辻斬りと何らかの関係が有ると思う方が自然だ。
あの夜、現場には少しばかりの血以外何も残っていなかった。刀も持ち去られたので調べる手立てすらない。
あの時もう少し早くあの場所にたどり着いていたならばきっとこのようなヘマをしなかったはずだろう。現場は見たのに手がかりが何一つなければどう仕様も無い。
しかしこのままグズグズとしていると八番目の犠牲者が出る恐れがある。まさに事態は刻一刻を争う状況である。

(犯人は…一体何者なのか?)

夜はともかく太陽が沈むまでは江戸の町並みは平和で活気に溢れている。
威勢の良い掛け声や物売りの独特の売り声が聞え、男や女も町人や侍もいる多種多様な人々がいる平和で健康な町並みの何処かに恐ろしい辻斬りが居るのだろうが?
西の空に輝く橙色の太陽は空を焦がすように美しく、そして何処か禍々しかった。

(逢魔ヶ時、か…)

むしろこう言う危うげな時刻にこそ、魔は通りを平然と歩いているのかもしれないと飛虎は思った。

「飛虎」
その呼び声と共に肩を叩かれて飛虎は我に返った。
振り向くと夕日によって髪が黄金の様に輝いている聞仲が居た。

「どうした?店を通り過ぎているぞ」
「あ…」

思わず考え事に気を取られ過ぎて店にたどり着いた事に気付かなかったのだ。飛虎は左右を見渡してその事にやっと気付いた。
聞仲は怪訝な顔をして飛虎の顔を見る。

「何かあったのか…?」
「いや」

飛虎は苦笑を口元に浮かべた。

「あんまりにも綺麗な物ってのは…ちょっと怖いなって思ってよ」
「・・・・」
首を傾げてその意味を問う聞仲を見て、飛虎は自分が奇妙な事を言ってしまったのに気付いた。慌てて目の前で手を振り、笑いで場の空気を誤魔化す。

「あ、気にするな。単に夕日が綺麗だなって思っただけだ」
「そうか」
「さあ、早く報告を聞かせてくれよ。鰻もたんと食いながらな」






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