鰻重を食べながら飛虎は聞仲の報告を聞いた。 店には店員が出歩き、左右には沢山の客がいたので聞仲は白焼きを食べながら低い小さな声で話し始める。 「半年前、加茂屋錦司の死体が川に浮かんだ時、真っ先に疑われたのは番頭の平助だった。 元々夫婦仲のよくなかった二人の関係は随分冷めていたそうだ。夫の錦司は深川の常磐津の女師匠に入れ込んでいたし、妻の梅は平助と関係を持っていた。 錦司が死ねば店を仕切るのは平助だろうとは誰もがわかっていたし、実際その後の店を仕切ったのは平助だった」 「ではどうやって奴の疑いが晴れたんだ?」 「錦司の死んだその夜、あいつは馴染の小料理屋で一晩中酒を飲んでいたのだ。もし証人が店の者だけならば買収された可能性もあるが、他にも伊東健司という浪人がいたのだ。 浪人とはいえ、父の代は白沼藩江戸詰藩士でそれなりに身分ある家の侍なので調べた役人達もその証言を信じたのだよ」 「なるほどな…」 「話はそれだけではないぞ、飛虎」 聞仲は話しながら身をほぐした白焼きをぱくりと口に入れる。 脂の乗った鰻は美味だったが聞仲にはそれを感じる精神的余裕は無かった。おざなりに咀嚼し、これから話すべき事を頭で整理しなおすと飛虎の顔を覗き込んだ。 「いいか。錦司の妾だった常磐津の女師匠というのがお光だったのだ。 ついでに二人の関係は錦司が一方的に美人で評判のお光にほれ込んで口説いたところから始まっているそうだ。お光は浪費癖が悪く、借金に首が回らなかったので錦司の金が目当てだったらしい。ところが錦司は元々朴念仁で仕事一筋の人間だったので近所でも男癖の良くない女を信じきっていたらしい。 そして最後に生きている錦司を見たのはお光だ。彼女は酒を飲んで帰ったと証言したので不信な傷があっても酔った足がもつれて川に落ちた時に出来た傷の可能性にしてしまったのだ。 しかし本当にお光の言葉を信じなければ?…金目当ての関係ならば平助に頼まれれば協力する可能性もあるだろう?」 「確かに。平助とお光の関係は半年前の事件と関連が有り、今回の事件で二人が斬られたとなると半年前の錦司の殺害とも何かしらの繋がりがあるに違いないな」 「そうであろう?」 「その伊東健司っていう浪人の家は調べたか?」 「もう居所も分っている。ここからさほど遠くないが…行くか?」 「当然だろ?」 飛虎は鰻重を手に取ると一気に腹の中に収めた。 **** 店を足早に出た二人が外に出ると往来では黒い人だかりが出来ていた。 人垣の向うからは怒鳴り声とバタバタとした物音が絶えない。 他人よりも頭二つ分背丈のある飛虎と、頭一つ分は高い聞仲は人垣を難なく越えて覗き込む。 すると其処では相撲取りと魚河岸の男達数名が取っ組み合いの喧嘩をしていた。 体格は相撲取り達の方が良いが、毎日江戸中の魚を取り扱っている男達も肉体労働で鍛えているので体格の悪さは筋力と意地で補い、一歩も引けを取らない。 更に、「この野郎」「畜生めが」「くたばれ」「なめるんじゃねえやい」等と殴りあいながらも互いに激しく罵りあうことも忘れていない。 『火事と喧嘩は江戸の華』という言葉は現在でも残っているが、基本的に江戸の人間は見栄っ張りで、短気で、口が動くと同時に手も動いている傾向があるので一般人の喧嘩でも取っ組み合いになることはしばしばあった。 左右入り乱れ、互いに髷や着物が乱れるのを気にせずに繰り広げられる大立ち回りは次第に加熱してゆき、素手での殴り合い、蹴りあいから遂には手当たりしだい硬いものを投げつける騒ぎになり始めた。 一人の相撲取りの額から桶で殴られて血が出始めた頃には気楽に見ていた野次馬達も表情を変え始めた。 しかし今更止めようとしても時遅し。誰も止めなくてはと思っても桶や天秤棒、腰掛等を振り回している荒くれ者の男達の間に入る勇気は持ち合わせていない。 そうこうしている間に、遂には魚河岸の男の一人が自前の包丁を手にした。 流石に周りの人間達が悲鳴を上げて制止しようとしたが、興奮した男はその声を全く耳に入れようとしない。一触即発の緊張が喧嘩に満ちた。 「やべえな…」 そう呟いて飛虎が隣を見たが聞仲は既に其処にいなかった。 辺り見渡すと人垣を潜り抜けて包丁を持った男に一直線に向かっているではないか。飛虎は彼が熱血な正義感である事をすっかり忘れていた自分に対し舌打ちした。 見た目は涼やかで時には鋭利な印象すらも与える聞仲は普段では考えられないほど印象が違った。 物売りが肩に担いで商品を運ぶ時に使う天秤棒を手にしている。包丁を持った魚河岸の青年と大柄な相撲取りの間に立ち、一町先にも聞く事の出来るような大きな声で一喝した。 「いい加減にしろっ!」 鼓膜を響かせられた二人は一瞬呆然としてしまったが直ぐに我に帰って聞仲に怒鳴り返す。 「てめえには関係ぇ無ぇだろ!」 「消えな、この優男が」 聞仲はひるむ事無く堂々とした口調で血走った二人を交互に睨みつけた。 「関係有るとか無いとかそんな問題では無い!包丁まで持ち出しているがお前はこいつを殺すつもりなのか?!」 「うるせぇすっこんでろ、この盆栽野郎!」 「てめぇごときのナマクラ包丁に刺されるような身体はしてない!かかってこいっ」 ついに包丁をもった青年が聞仲を無視して相撲取りに刺しかかろうとする。 周囲から悲鳴が上がる。女達は顔を手で覆い惨劇から目をそらした。 しかし聞仲は目にもとまらぬ速さで手にしていた天秤棒で青年の甲を叩いて包丁を落させ、腰を思い切り打った。そして続いて相撲取りの両脛を叩いた。 二人は悲鳴を上げると地面に倒れる。 他所で喧嘩していたそれぞれの仲間はそれを見ると血相を変えて聞仲に飛び掛ってきた。 聞仲は慌てずに投げつけられた手桶をかわし、一人目の相撲取りを峰撃ちの要領で首に天秤棒を叩きつけた。 更に同じ要領で二人を気絶させ、後ろから飛び掛ってきた一人から壁を蹴って軽業師のように飛び上がり交わすついでに背中を突き飛ばして転ばせる。一人の相撲取りには足元に落ちていた手桶を頭に被せて思い切り投げ飛ばす。 そして、最後の二人は関節技を決めて地面に倒れさせた。 あまりにも動きが速く、瞬く間の出来事に野次馬達は呆然としたが、一人が手を叩くと凄い歓声が沸きあがった。 芝居の女形の様な細身の美しい青年が荒くれ者達を一人であっという間に倒してしまうとは誰が予想したであろう。目の前で起きたこの信じられない立ち回りに人々は興奮した。 「凄えな、あんちゃん!」 「今牛若みてぇだぜ」 「てぇしたもんだぁ」 「いよっ、天下一っ!」 「男前だねぇ」 我に帰った聞仲はいきなり四方から歓声を受けているのに気付き、頬をうっすらと赤く染める。それがまた人の歓喜を買った。拍手や笑い声が更に大きくなる。 「アイツは何やっているんだ…」 飛虎はぼそりと呟いた。無精髭を撫でながら辺りを見回す。 右側から左側にゆっくりと視線を動かしている途中で飛虎の目が止まった。鋭い眼差しで一人の男をじっと見ると人込みを掻き分けて左側に移動した。 飛虎が目指す先には長身の若い侍。背後からそっと近寄り観察する。侍は目の前の聞仲に気を取られていて飛虎に気付かない。彼が気付いた時は飛虎が自分の肩を叩いた時だった。 驚いた表情で振り向くと飛虎は人懐こい笑みを浮かべた。 「なああんた、この前俺に会っただろう?」 若い侍は一瞬にして表情を変えた。動揺によって目がぎこちなく左右に動く。 飛虎はそれを見て確信した。この男はあの辻斬りの現場にいた侍だ。暗闇では良く分らなかったがなかなか端正な容姿をしていた。年は飛虎と同じくらいであろう。 「貴方を捜していたんだぜ。偶然会えてよかったよ」 「何か私に御用が御座いますか?」 「印籠を渡したい」 飛虎は口元に笑みを浮かべたまま静かな目で侍を見る。 口調は先ほどと変わらなかったが、拒否を許さない強い響きがあった。 「今は持っていないから明日昼下がりにでも日本橋外れの封神町の長屋に来てくれ」 騒ぎを聞きつけた同心と岡引達が駆けつける。 侍が微かに頷くのを見ると飛虎はやっと今まで掴んでいた肩を放し、軽く頭を下げた。 「悪いがこれから野暮用があるから失礼する」 侍は呆然と飛虎の背中を見送った。 人垣を掻き分けて出てきた聞仲は小走りに近づいてきた飛虎を見つける。 二人は無言で意志を確認すると野次馬や岡引が呼び止めるのを交わして横道に入り、通りから消えた。 |