昼下がりの下町に一人の若い侍がやって来た。 着ている着物はさほど上質のものではなかったが、佇まいが洗練されていて、侍らしく背筋が大変良い。その侍は飛虎が昨夜に呼び止めた男だった。 井戸端会議をしていた女達は彼がこの様な場所に来たので気になったが、飛虎が彼の姿を見ると手を振り、招き寄せたのを見ると飛虎の知り合いだと判断してまた夫達の愚痴に話を咲かせた。 すっかり居座った聞仲の家の前に腰掛を置いて煙草をくゆらせている飛虎を見つけると、侍は礼儀正しく一礼した。 「よく来てくれたな」 「昨夜お話された物を…」 「ま、そう焦らずに。座ってくれ、茶でも用意するから」 飛虎は表情の固い侍を座らせると聞仲の家に戻り、湯飲みと急須を持って侍の隣に座った。 聞仲お気に入りのほうじ茶の香りが芳しい。侍に湯飲みを渡すと飛虎もまた茶を飲んだ。 自然とほっとした息がこぼれる。 飛虎はおもむろに懐を探ると印籠を取り出した。それは飛虎があの夜に飛虎にぶつかって逃げた侍が落としていった物だった。 「ほらよ。コレは貴方のだろ?」 「誠にありがとう御座います」 侍は印籠を大事そうに懐にしまう。やっと彼の表情に落ち着きが取り戻された。 「貴殿のお名前をお伺いして宜しいでしょうか」 「そう畏まった話し方されると困るな…。姓は黄、名は飛虎。二本差しを差してはいるが仕事もせずに適当に遊んで暮らしている者だ」 「失礼で御座いますが、御旗本であられますか?」 「ま、そうだけどよ。つまらなねぇ閑職だから碌は少ないし、お城にも上がる必要もねえよ」 だから御覧の様な有様な訳って事よ、とおどけて飛虎は言った。 「で、お侍さんはどこの出身で?江戸ではねえようだな」 「あ、はい。私の姓は野口、名は甲太郎と申す。三年前に国元から江戸詰になりまして参りました」 「故郷は何処なんだい?」 「きっと黄殿は御存じない、小さな名も無き藩でございます」 「そうか」 甲太郎の丁寧だがそれ以上は答えようとしない口調を敏感に察知した飛虎はあっさりと引き下がった。 再び煙管を手に取り、煙草に火を点ける飛虎。 「なあ野口殿」 「はい」 「なんでお前さんはあそこに居たんだい?」 甲太郎は口元をピクリと動かした。視線が湯飲みに落とされる。 「偶然…あの場所を通りかかって…」 「そうか、俺もあの道は良く通るがあんなものを見るとは思いもしなかったぜ」 「私もで…」 「野口殿、あの二人の背格好覚えているか?」 「…暗くてよく見えなかったので良くは憶えておりません」 「そうか。俺は良く見えたんだ。一人は無精髭の顔に古傷がある浪人風の男だったんだが…」 飛虎は茶を飲み、言葉を一旦止める。 「その男、昨日死んだらしいぜ」 「・・・・・っ」 甲太郎の目が見開かれ、飛虎を見る。 飛虎の口から吐き出された煙は二人の間をゆらゆらと彷徨い、空に消えた。 **** 夕日は沈み、甲太郎に会った後、飛虎は聞仲と一緒に伊東健司の住む家に向かった。 大概浪人の家と言えば粗末なものであるが、伊東の家は現在聞仲が住んでいる家よりもしっかりとした一軒家だった。 家の前で飛虎が声を掛けてみたが返事は無い。聞仲がもう一度声をかけてみる。 「すみません、いらっしゃいませんか」 「どうやら灯りも点ってねえし、誰もいないみたいだな」 「しかしせっかく此処まで来たのに何もしないで…」 何気なく聞仲が戸を引くと何の抵抗も無くとは一寸ほど開いてしまった。 思いがけぬ展開に困惑した表情で聞仲は飛虎を見上げる。飛虎は軽く肩をすくめると戸に手を置いた。 「まあ良いんじゃねぇの?勝手に開いてしまったんだからよ」 「そう言うことにしておこう」 目的の為なら手段を選ばない部分は珍しく二人の共通する性格だった。 直ぐに気分を取り直すと家の中に入る。 灯りの無い暗闇の中で、先ず二人が気付いたのは鼻をつく臭いだった。血と生物が腐敗した強烈な臭いに、二人は本能的に何かを察知した。聞仲は後ろ手で戸を閉め、飛虎は畳の上にあがる。 「飛虎」 「安心しろ。俺は夜目が利く」 されど月光もろくに差し込まない暗闇同然の部屋では飛虎も壁伝いに転ばぬように上がるのが精一杯である。火鉢には火が絶えていたので、何とか裏手の竈(かまど)に近寄ると火打石をやっと見つけ、まずはそれで自分の煙草に火を点けた。 小さな蛍のような赤い光が行灯にやっと点けられると、やっと部屋に薄暗いながらも明るさが蘇った。異臭が更に立ち込める襖の向こうの部屋に飛虎は躊躇わず入る。 部屋の奥にある行灯の傍に屈んでいる飛虎の視線は部屋の真ん中に敷かれていた蒲団に集まった。 「聞仲、ちょっと来い」 履物を脱いで聞仲は部屋に上がり、更に飛虎のいる奥の部屋の襖を開けた。 8畳程の部屋の中央には薄汚れた蒲団があった。そして其処には一人の男が身体を半分蒲団からはみ出して寝ていた。どす黒くなった血の滲んだサラシが散らばり、乾燥した嘔吐物や排泄物が蒲団や男に染み付いている。 それを見ただけで二人はその男が既に死亡していると十分に分った。 おもむろに飛虎は立ち上がると、死体の顎を捉え灯りに向けさせた。 苦悶に満ちた顔には無精髭と古傷。 その顔に飛虎は見覚えがあった。 「一足遅かったな」 「ああ」 「伊東健司が辻斬り…なのか?」 聞仲は数秒遅れてから、敢えて軽い口調で答えた。 「さあな。とにかくお前は此処を出たほうが良い。私はもう暫くこの死体を調べて、番所に投げ文してから戻る」 「…分った」 **** 飛虎は煙草を詰め替えると再び火を点ける。 甲太郎にも煙草を勧めたが、彼は丁寧にそれを断った。 「偶然俺の顔馴染がその男の家の近くに住んでいてよ、それで知ったんだ。どうやらあの時にもう一人の奴に刺された腹の傷が原因だそうだ」 「私もあの男が刺されたのは見ましたが死に至るほどの大きな傷ではなかったように思いましたが…」 「確かにな。傷自体は大した事無いんだけどよ、ああいう傷を放って置くと大変になるんだよ」 腸等の内蔵に刃物に着いていた雑菌が入り、そのまま放置しておくと傷は小さくても数日後に死に至る事がある。傷が小さいから気にせずに治療を受けずにいて手遅れになっ手しまう事が多いのだ。伊東の場合も、怨恨の刃傷沙汰を他者に知られたくないが故に己で適当に処置し、それが原因で死に至ったのである。 「その伊東って侍は気が短くてなまじ剣の腕は人並み以上だったから直ぐに喧嘩しては、問題起こして浪人になっちまったが、再仕官など毛頭考えずに酒と博打三昧でそのうち誰かに殺されると近所の人間誰もが思ってみたいらしいぜ」 「確かにあの時、あの男は何者かに襲われておりますし相当恨みを買っているようでございますな」 「黒麒麟が出てこなかったら伊東は確実に返り討ちにしているところだったな」 「黒麒麟…?」 「いたでしょ、もう一人黒装束の男が」 「ああ…あれが江戸で事件があると必ず現れるという輩でござりますか」 「そうらしいな。まぁ、あれが本物の黒麒麟だという確証は無いが」 飛虎は口に含んだ煙を勢い良く吐き出す。ちょうど二人の前を丸々と太った大きな白猫が通り過ぎた。 煙管を先に置くと舌を鳴らして猫を呼び寄せる飛虎。 「おいで、蚤取ってやるぞ」 むくむくとした大きな猫は飛虎に抱えられて膝に乗ると大人しく丸くなった。 隣町に住んでいる数寄者に飼われている黒点虎は人間の雰囲気を敏感に察知してその場に応じて大人しくなったり、甘えたので近所の住人達は黒点虎が人間の言葉を理解できるのでは、と思っていた。 飛虎の膝の上で黒点虎はごろごろと喉を鳴らす。 「それはともかくとして、これでやっと辻斬りの犯人がお縄頂戴になるだろうな」 首をかしげ、甲太郎は飛虎の顔を見る。 白い額にある黒い斑を飛虎は撫でる。同意を求めるように甲太郎を見返した。 「伊東の身辺を洗えばきな臭い人間が見つかるぜ?どうせ大方同じような境遇の浪人だろうな」 「…そうでありますな」 「だろ?その内だよ」 黒点虎が飛虎の膝から飛び降りると大きな身体に似合わない軽やかな動きで小走りぎみ道を走る。 その行く先には聞仲がいた。いつも通り黒い仕事着に、大きな道具箱を右手に下げながら歩いてきた。飛虎は手を振って聞仲に気付かせる。 聞仲は空いている左手で黒点虎を抱えると飛虎と甲太郎の座る腰掛までやって来た。 「仕事終わったのか?」 「ああ。お前は相変らず何もしていなかったようだがな」 そう言いながら聞仲は腕の中のずっしりとした重みのある猫を飛虎に無理矢理渡した。 慌てて黒点虎を受け止める飛虎。危ないだろ、と抗議する飛虎の視線を無視して聞仲は卒の無い笑顔で甲太郎に身体を向け、会釈をした。 甲太郎は聞仲の植木職にしておくのは勿体無い容姿に目を奪われる。だが直ぐに我に帰り、会釈をしかえす。 「私、野口と申しまして先日黄殿に印籠を拾って頂き、取りに参ったものでございます」 「それは良かった。私は飛虎を居候させている聞仲と申します」 「…昨日、鰻屋の近くで喧嘩を仲裁した方であるか?」 「ええ、まぁ」 「こう見えてもさ、実はこいつ向こう見ずな奴なんだよな…イテっ!足踏むなよ!」 「黙れ」 聞仲は冷たい視線で飛虎を一瞥する。 野口は見た目を裏切る性格に驚きながら聞仲を見上げる。 「あの荒くれ者達相手によくもまぁ鮮やかに、と思いましたよ。…何か武道でもたしなまれた経験があるのでしょうか?」 「いえ、御覧の通り私は植木職でございますから、まあ多少身体を動かすのが他所様よりも得意でありますし、刀は持った事は有りませんがこの通り刃物も持ちなれているだけでございますよ」 と言って聞仲は道具箱からはみ出ている特注で作らせた大きな鋏を見せた。両手を使って切るその鋏の刃は鋭く、大きなものだった。 「あ、そうだ。野口さんもこれから団子食いにいかねぇか?浅草寺の近くにいい店を見つけたんでこいつとコレから行くんだけど…どうだい?」 飛虎は聞仲に思い切り踏みつけられた足をさすっていた。この体格の大きい飛虎と美形の聞仲と一緒に茶屋に入ったらきっと注目の的になるだろうなと思い、野口は苦笑した。 「残念でございますが、生憎用事がありますのでこちらで失礼させて頂きます」 野口は立ち上がると丁寧に飛虎に頭を下げた。 気恥ずかしげに手を左右に振る飛虎。 「まあまあ、そう馬鹿丁寧に挨拶しなくても構わねぇのに。暇があったらまたいらして下さいよ、俺はいつもいるから」 「はい」 そしてもう一度、野口は頭を下げると脇に置いていた刀を差し、聞仲にも軽い会釈をして去る。 その背中を見送り終わって飛虎を見ると、飛虎は猫を抱えたまま気難しい顔をしていた。 「飛虎?」 怪訝に思って聞仲が声をかけると、飛虎は元の表情に戻った。 「ああ、すまねえ。ぼーっとしてた」 「何か考え事でも有ったのか?」 「いや、何でもねえよ」 未だ納得のいかない表情を浮かべている聞仲の肩を立ち上がって叩くと、飛虎はいつもの人懐こい笑みを浮かべた。 「大丈夫だよ。それより伊東の事について何か分った事はないか?」 「中に入ってから話す」 「分った。…クロ、もう帰りな」 飛虎から解放された黒点虎は軽やかに地面に降りると隣町へと帰っていった。 |