「そんな事を僕に聞かれても分らないよ」 口元に微笑を浮かべながら普賢は飛虎にぴしゃりと言い返した。 呂望と同じくらい小柄の中性的で少年のような容姿をした普賢は燃燈の代理をしていたので機嫌が悪かった。 「僕が拾ったわけでも無いし、そもそも燃燈が拾った本を望ちゃんに渡すように頼まれただけで中を見てもいないのだよ?向島の何処で拾ったなど分らないよ」 いつもの飛虎ならばこのように真綿を首で締められる様な普賢の口調に負けてすごすごと下がってしまうが、今回ばかりは簡単に諦めなかった。 「じゃああの本を燃燈以外に読んだ奴は居ないか」 「机の上に適当に置いていたから誰かが見ていたような気もするけど」 「誰だ?」 「…あのね。此処に来る人間が何人いるか知っている?生憎僕の記憶力はそんなに良くないよ」 確かに元覚館に通う門弟の数は日々増えるばかりである。正確な門下生の数は誰もしらないであろう。 ただし普賢の場合、自分にさして重要ではない人物の名前は毛頭覚える気が無いのが主な原因である事は間違いないが。 しかしこれ以上普賢の機嫌を損わせるのは得策ではないと飛虎は分っているので敢えてそれに関するツッコミは入れなかった。 「じゃあ此処に鈴木三郎って奴はいるか?」 「鈴木三郎?随分分りやすい名前だね。そんな覚えやすい名前ならばいくら僕だって記憶しているよ」 「じゃあここ門下生の中で白沼藩か中垣藩の藩士、もしくは浪士はいないか?」 「白沼か中垣…」 と言って唇に親指を当てて記憶を探っていたが、どうやら思い出せないらしく普賢は背を向けて戸棚に置いてある名簿を捲りだした。 しかし数頁めくった後、普賢は適当に名簿を背後に投げた。普賢の直接の門下生であり、身辺を手伝っている木托が慌てて床に落ちる寸前の名簿を、身を挺して受け止めた。 背後に気付いているのか否かは分らぬが先程と変わらない表情で普賢は飛虎に話し掛けた。 「白沼も中垣の藩士も居ないよ。浪士は此処に殆ど居ないけど確か両藩出身の者はいなかったな」 「そうか。…済まねぇな、邪魔しちまって」 「燃燈が帰ってきたら聞いてみるといいよ。彼なら詳しい事も分ると思う」 飛虎の表情には納得のゆかない曇りがありありと見えたが、それ以上は何も口にせずに彼は去って行った。 明らかにいつもとは違うぎこちない笑みを浮かべ、呂望に一言告げるのも忘れて元覚館を出た。 飛虎は複雑な気分だった。伊東殺しと半年前の事件に関連している男が浮かび上がり、更に新見が殺された理由らしき手がかりは掴めた。しかし、燃燈の拾った新見の脚本を読んだ人間は分らない。 (てっきり鈴木本人が見てねぇんなら中垣藩か白沼藩の者だと思ったんだがな…) 侍は行動範囲が狭い。意外なことかも知れないが、支配者階級の武士の方が町人のように自由に行動が出来ず、またこの頃になると長年の物価の高騰により生活もままならぬ者も多かった。幕府直属の旗本は夜間には外出を禁じられ、旅行に行くに当たっても上司の許可を得なくてはいけないという、現代人にしてみれば大変に不自由な生活を送っていた。 従って友好範囲もさほど広いわけでもない。飛虎は伊東健司か鈴木三郎に関連のある人間ならばきっと二人が仕えていた藩の者であろうと見込んだのだが、当てが外れてしまった。 己のカンを信じて行動し、それが結果に現れる飛虎としては何とも言えない気分だった。 仕方ないと言えばそれまでの事なのだが、どうしても自分のカンが外れた事に納得がいかないのだ。 いつもの人に好かれやすい笑みも何処かに消えてしまい、眉間に皺を寄せたまま道を歩く飛虎は通行人の視線を集めるほど剣呑になっていた。 昼下がりの陽気も、活気の良い町並みも全てが苛立たしい、と思ってから飛虎はやけにいらだっている自分自身に苦笑した。 複雑な出来事を解決する為には一番大切なのは冷静であり、一番してはいけない事は苛立ちである。そんな事、いちいち言われなくとも分っている…と、思いながら結局自分は無様な姿を曝し出してしまった。 飛虎は肩の力を抜くと、頭を掻いて深呼吸をした。 自分にはやるべき事があり、優秀な相棒が居る。無闇に感情を乱してはいけない。 「目の前にあることを少しずつ謎解きすればいいんだ」 着物の襟元を直し、羽織の皺を払うと飛虎は颯爽と街中に消えた。 西の空が赤く染まり、烏の鳴き声が聞こえる時刻になった。 時刻を知らせる鐘の音を耳にした飛虎は顔を上げ、その時になって現在の時刻に気付いた。 「いけねえな、時間取らせちまって…」 「水くせぇこと言うんだな、気にするな」 と言って道徳は顔の前で手を左右に振った。飛虎は猫のように両手を伸ばして背筋の筋肉を伸ばした。 牛込の紫陽館に来た飛虎は道徳の部屋で長い間話し合っていた。 背伸びしたついでにあくびまでした飛虎は音を立てながら首を曲げる。 「ま、それについて何か知っている事があったら教えてくれ」 「分った」 「それじゃあよ…」 と言って飛虎が脇に置いていた刀を持って立ち上がった時だった。玄関から大きな声が聞こえ、更に廊下を踏み鳴らす大きな足音が響いた。 二人は動きを止めてじっと廊下に耳を澄ます。足音は真直ぐに道徳の部屋に向かい、人影は肩で息をしながら障子の前で膝を着いた。 「し、師匠!其方にオヤジは…黄飛虎はいるさ?」 「居るぞ、入れ」 道徳が返事をするまでも無く飛虎が天化に答えた。 同時に障子が開き、天化が転がり込むようにして部屋に入ってきた。汗をかき、着物は乱れたままの姿に飛虎も道徳も表情を変えた。 「どうしたんだい?天化」 「師匠、火急の件につき無礼を失礼します」 「下手糞な挨拶なんてどうでもいい、一体何があったんだよ天化」 「た、大変さっ」 天化は飛虎の前に進み出る。 飛虎は中腰のまま天化の顔を覗き込んだ。 「聞仲さんが辻斬りに遭って、怪我したさっ」 飛虎の顔から色が消えた。 夕日を頬に受けた飛虎の顔は不動明王の様に恐ろしく見え、天化は見た事の無い飛虎の表情に言葉を失った。 ぎり、と飛虎の奥歯が噛締められる音が聞こえる。飛虎は天化や道徳に一言も話し掛けずに立ち上がり、玄関に向かって走り去っていた。 あっという間の出来事に呆然としていた天化は我に帰ると、飛虎の背中に向かって叫んだ。 「聞仲さんは家に戻っているからっ!大屋さん達が看病しているはずさっ!」 |