翌日、聞仲は蒲団から起き上がる事が出来なかった。 腕に負った些細な掠り傷や首に受けた身値打ちの衝撃からは回復していたが、微熱とは言えないほどの熱が出てしまったのである。 蝉玉達も飛虎も大変心配したが、道徳の紹介した医者は「単なる疲労と寝不足が是を切っ掛けに現れただけだ」と病気の可能性を一切否定し、大人しくしていれば一晩で動けるようになると太鼓判を押したので一同は何とか安心する事が出来た。 飛虎は雨が降る街中を、傘を片手に歩く。 聞仲を診た雲中子と言う医者は特別に滋養のある薬を処方する為に一度封神町を出て、診療所に戻った。飛虎は彼の荷物持ちを兼ねて雲中子と診療所に行き、薬を貰って帰るところであった。 江戸の道路は舗装されていると言っても当然アスファルトやコンクリートで覆われているわけではない。雨が降れば騒然泥がはね、水溜りが出来る。また電灯があるわけでもないので雨が激しく降ると視界も悪くなる。 ゆえに交通手段は徒歩しかない江戸は雨が降ると随分と静かになった。特に大名や旗本家が立ち並ぶ武家地では通りには飛虎一人しかいなかった。 飛虎は足元の水溜りをよけながら考えをめぐらせていた。 聞仲がいくら背後から不意を襲われたとは言え、気絶までし、さらに発熱したのは明らかに過労が原因だ。我慢強く責任感が強い聞仲が無理をするのは火を見るより明らかな事であったのに、こんな事になるまで放っておいたのは明らかに自分の責任である。 彼と聞仲では身分が違い、本来ならば聞仲が飛虎の手足となって動くのは当然の事である。しかし彼にとっては聞仲との関係は対等なものと考えていた。 激しく後悔の念に襲われる飛虎は地面に視線を落として歩く。たとえ人が正面から歩いてきてもその隣を通り過ぎるまで全く気がつかないほど飛虎は落ち込んでいた。 沈丁花系の香りが鼻先を掠めて飛虎は顔を上げた。 振り向くと中年の身分の高そうな侍がある武家屋敷の門をくぐろうとしていた。 暫くそれを見ていた飛虎は扉が閉まるとまた歩き出す。そして通り過ぎた男の羽織に付いていた家紋が中垣藩の江戸家老の家紋であることを思い出した。中垣藩の江戸家老は白髪の老人と記憶していたが、どうやら息子に家督が継がれたようである。先ほど通り過ぎた男に飛虎は見覚えが無かった。 そこまで考えた時、飛虎は再び足を止めた。 最初は目を見開いていた顔が次第に険しくなり、無表情になる。 そして懐に入れていた薬をしっかりと帯に差し込むと傘を片手に走り出した。 水溜りを踏む颯爽とした水音が武家屋敷に響き渡った。 **** 八丁堀の元覚館に飛虎が息を乱してたどり着いた。 玄関に迎えに来た楊ぜんを押しのけるようにして屋敷に上がりこむ。その物音に呂望が廊下に出ると、飛虎は襟首をつかみかからん勢いで呂望の顔に迫った。 「おい、燃燈は帰ってきたか?」 縦に頭を振る呂望。 「何処にいるんだ?」 「奥のワシのとな―――」 「わかった」 言葉を終わらせる前に奥の部屋に向かってゆった飛虎の背中を珍しく迫力負けした呂望は呆然と見送る。 「慌しいやつだのう、まったく…」 「燃燈殿っ!」 障子を開けた途端、飛虎は挨拶もせずに文机の前に転がるように座った。その机の前には目元がきりりとした若い男がいた。突然の失踪から一月ぶりに帰ってきた燃燈である。 姉に手紙を書いているところに突然乱入してきた男を見て、燃燈は眉間に皺を寄せた。 「お前は確か呂望の…」 「そ、腐れ縁の黄飛虎だ。悪いが挨拶は後でさせてもらうからまず一つだけ先に教えてもらいたい事がある」 切羽詰った口調と真剣な目をしている飛虎を見て、燃燈はただ事ならぬ事情を察した。 「何を聞きたいのだ」 「此処に通っているある藩士についてだ」 「何処の藩の者を知りたいのだ?」 「萩原藩」 「ああ、あいつの事だな。…確かに萩原藩の藩士が一人だけ此処に通っている」 燃燈が口にする前に、飛虎は一人の名前を口にした。 「こいつに間違いないだろう?」 と言われた燃燈は首をかしげ、飛虎の顔を見返す。 「そうだ。…しかし何で彼の名を知っているのだ?」 口元に深い笑みを浮かべると飛虎は何も返事をしないで燃燈を見返した。 **** 聞仲は部屋の向こうに人の気配を感じて目を開けた。 発熱の為、少しだるくなった体を起こすと同時に飛虎が襖を開けた。聞仲は飛虎の姿をじっと見た。蒲団から半身を起こしただけなので飛虎を見上げるようになり、熱で少し潤んだ目は相当な艶かしさがあった。普段では見かける事の無い無防備なその姿に、飛虎は自然と笑みを浮かべた。 腰に差していた刀を抜き、雨で湿った着物を懐から出した手ぬぐいで軽く拭くと飛虎は聞仲の傍らに座り、額に手を当てる。 「熱は下がってきたようだな」 「ああ。薬が効いたみたいだ」 「八郎が…岡引が、届けてきたか?」 「そうだ」 「よかった。済まなかったな、人に頼んじまってよ。ちょっと行かなくちゃいけねえ所があってよ…」 「こんな晩くまで一体何処に行っていたのだ?」 「うん…。まあ、色々とな」 「飛虎」 心配そうに瞳を曇らせる聞仲。飛虎は慌てて片手を前に出して軽く頭を下げた。 「そう心配するなよ。事件の糸口がやっと掴めてきたんでチョッと調べていたんだよ」 「何故私に言わなかったのだ」 「馬鹿言うなよ。お前は医者に診て貰うほど熱があったんだぞ。元気な俺が動き回るのは当たり前だろう?」 聞仲は飛虎の顔をじっと見た。飛虎はそれが当然のように話し、優しく聞仲に微笑みかけていた。 屈指の名門の侍が自分のような人間を同等に扱い、対等な仲間として接する飛虎の優しさに聞仲は心を打たれた。 目を閉じて天井を仰ぐと、 「有難う…」 独り言のようにつぶやいた。 飛虎の驚いた視線が頬に感じたが、気恥ずかしさの為に目を開ける事は出来なかった。飛虎は暫く戸惑っていたが、聞仲の心情を察してかわざと乱暴に肩を叩いた。 「そう改まるなよ。明日か明後日にでも熱が下がったらお前さんにも一仕事してもらうからな」 ゆっくりと目を開けて微笑む聞仲。 「そうだな…」 「ささ、早く蒲団に入りな。俺が上手い粥を作ってやるからな」 聞仲をまた蒲団に寝かしつけると飛虎は障子を閉めて次の間の台所に向かった。 後ろ手で障子を閉めると飛虎は複雑な顔をして隣に聞こえないように小さなため息をついた。 (いかんな…。事件も解決してないのにあいつの一動作にこうも心かき乱されてよ…) |