雨は次の日も小雨になったとはいえ、しとしとと降っていた。 飛虎や近所の者達の不安も無く、聞仲の熱は一晩で下がって朝には床上げ出来た。笑顔でおきんや蝉玉に挨拶をすると一同ほっとした顔をして聞仲を迎えた。 蝉玉の父親の家である町火消しの組頭の家で、飛虎と聞仲を始めとした住人たちは姫発の持ってきた大福を手にして世間話に話を咲かせた。 そうして午前の休憩を取っていた頃に、元気いっぱいの少年が合羽を羽織ったまま玄関に現れた。 「すみませーん」 偶然飛虎が玄関の近くに居たので障子を開いて対応に出る。少年の姿を見ると彼は片眉をひょいとあげた。 「えっと…御園のところの武吉だったよな?」 武吉はからくり人形のように頭を直角に下げる。それから上目遣いに飛虎を見上げた。 「はいっ、お師匠様にお仕えている武吉です!今日は飛虎さんにお手紙を届けに参りました」 「そうか…」 どうもこの元気のよさとハキハキとした調子は自分に合わないな、と飛虎は心の中で苦笑する。懐から丁寧に出された手紙を受け取る。 背後の閉じた襖から誰かが出て来ても覗き込まれないように猫背で手紙を開くと、相変わらずの癖字で淡々とした御園こと太公望の文章が書かれていた。 目を通し終えて飛虎が書を懐に仕舞い込むのと、何時まで経っても飛虎が部屋に戻ってこないのを不審に思った蝉玉が襖を開けたのは同時だった。 「どうしたの?飛虎さん。――あら、この子は?」 「はい、僕はお師匠様にお仕えして」 「武吉だ。俺の馴染の処にいる小僧だ」 と、飛虎は武吉の定文通りの自己紹介を早口に端折ると、 「――いいか、武吉。御園に『お前の言う通りにそちらへ行く』と言っておいてくれ」 武吉に言付けた。武吉はかしこまりました!と元気良く答えるとぺこりと頭を下げる。そして事情がまだ飲み込めていない蝉玉と遊び人の崩れた笑みを浮かべる飛虎を残して雨も全く気にせずに深川に戻っていった。 事情を飲み込めてきた蝉玉がため息混じりに飛虎を見上げた。 「…つまり、芸者からのお呼び出しなわけね」 「ま、そういうこったぁ」 飛虎のにやけた笑いは更に深くなった。嫌な顔をする蝉玉の肩を軽く叩く。 「硬い事言うなよ。今日は聞仲も出かけるんだからよ」 「えええっ?!」 目を大きく見開いて声を張り上げる蝉玉。予想通りの反応に飛虎は満足すると障子を開ける。 「聞仲さんが女遊び…?」 「他の奴には秘密だぞ」 飛虎に言われるまでも無い。あの真面目な聞仲が芸者遊びをすると聞いたら長屋の住民たちは大騒ぎになるだろう。 言える訳が無いじゃない、と蝉玉は小さく呟いた。 昼九つ(12時)も過ぎると蝉玉の家に溜まっていた住人たちもそれぞれの部屋に帰り、家事や仕事に戻っていった。 最後まで残った飛虎と聞仲もおきんに挨拶を終えると重くなった腰を上げようとした。すると丁度その時、また玄関から誰かが上がってきた。 足音がしたと思ったと同時に障子が開かれ、入ってきたのは天化だった。 今日は道場に通う日だったのでいつもの火消しの姿ではなく、町人姿の天化は少し大人びて見える。見慣れぬその姿に多少戸惑った飛虎と聞仲は直ぐに挨拶した。 天化は雨に濡れた羽織を脱ぎ捨てる。 「お、丁度良かったさ。なあ親父」 「親父ではない、飛虎と呼べ」 「どっちだっていいさ。ったく、話の腰を折らないさ。ええと…師匠からの伝言があるさ」 途端に飛虎の顔が真面目になる。口元が引き締まり組んでいた腕が解かれて天化の目をじっと見る。天化は飛虎が真剣な表情になったのには気付いていたが、伝言の内容がさっぱり分からないので懐から取り出した手拭で頭や足を拭いながら軽口で話した。 「で、道徳は何て言っていた」 「『村は山中にある』だってさ」 「なるほど。分かった、ありがとよ」 「なあ、これってどういう意味さ?」 「ん?お前も郭の観音様を拝むようになったら教えてやるぜ」 女遊びの話題を降ってきた飛虎に天化は顔を赤くして怒鳴り返す。 「俺はそんなところ興味ないさ!」 「飛虎さん、この子に余計な事を教えるんじゃないよ!」 「ははは、分かったよ。天化はまだまだ子供だからなぁ」 「いつまでも子ども扱いするの辞めて欲しいさ!」 「ははは、そう言う所がまだ餓鬼なんだよ」 飛虎は巧みに話題を変えて天化達の疑問をそらすとおもむろに席を立ち上がった。聞仲もそれに合わせて立ち上がり、傍らに於いていた羽織の袖に腕を通す。 「さてと。聞仲の床上げ祝いにいっちょ遊びに行ってくるか」 「今夜はお前の奢りだろう?」 「アッタリ前だぁ」 真面目な聞仲が軽口を叩いているのをおきんと天化はぽかりと口を開けたまま見つめる。 二人はさして気にも留めずにけらけらと笑いながら「それじゃ」と挨拶して家を出た。 扉を閉じた途端、二人は真面目になる。 「お前、以外にああいう演技も出来るんだな」 「…仕方あるまい。早く仕事を片付けるぞ」 「そうだな」 「私はお前の紹介するその深川の芸者の所に行ってくる」 「わかった。俺は例の場所に行ってくるぜ」 二人は傘を開くときびきびとした動作で雨の江戸を歩き始めた。 **** 雨はやっと止んだがまた湿度が残り肌寒さが感じる中で一人の侍が人気のない川岸に立っていた。 月は雲に隠れているので提灯を持っていない侍の視界は暗い。不安げに辺りを見渡し、左右に歩きまわって落ち着きが無い。 ふと、背後に物音を聞きつけて振り向くと背の高い男が立っていた。 侍はその姿を見つけると安堵の表情を浮かべる。今迄の動揺を取り繕い、甲高い声で男に話し掛ける。 「おい、待ったぞ。あいつは一体どうなったんだ?まだ俺を狙っているのか?」 数歩前まで男に近づくと侍はやっと目の前の男が単なる黒い着物を着ているのではない事に気付いた。眼を凝らして着物を見る。 「なんだその格好は?まるでそれでは」 侍の言葉は途中で途切れた。 闇に溶けた黒い着物の男は無言で侍ににじり寄る。鋭い刃物が不気味に輝く。 侍が悲鳴を上げる前に刀が振り下ろされた。 侍の低いうめき声は息に混じって囁くような小さな声だった。ふらり、と二・三歩侍は後退する。 黒装束の影は足を一歩前に進めると再び刀を回して侍の胴を切裂いた。 血が、弧を画いて吹き出る。 侍は土塀に体を預けるとゆっくりと崩れ落ち、事切れた。 黒装束は、全てを静かに見届けると凶器を棄てる。 男は軽業師のような足取りで闇を走り出し、闇夜に消えた。 |