二日間の雨も終に止み、この日は朝から青い空と明るい太陽が江戸の町を照らしていた。 そんななかを岡引の八郎が「てえへんだぁ、てえへんだぁ」と繰り返しながら往来を走り抜ける。 「おいっ、八郎!」 八郎は韋駄天の如く走っていた足をぴたりと止めると呼びかけられた大声を捜した。 振り向けば今は少年姿の呂望の隣にいた飛虎が彼を呼び寄せていた。 「飛虎の旦那、丁度探しておりやした」 「どうしたんだ」 「どうしたもこうしたも大変な事になっちまったよ、旦那」 人差し指をくいくいと動かして飛虎に耳を自分の口元に下げさせる。八郎は心の中で一呼吸置くと意を決めて飛虎に小声で囁いた。 「昨晩また深川の外れで辻斬りがあって鈴木という浪人が斬られました」 「なに。また例の辻斬りが?」 「鈴木じゃと?中垣藩脱藩の鈴木三郎の事か?」 飛虎と呂望は表情を変え、八郎に詰め寄る。 「へえ。長屋の大家が顔を確認したのでその鈴木三郎という侍に間違い御座いません。…しかも現場近くに刃物がありやして」 「犯人の物なのか」 「血もべっとり付いていて間違いないでしょう。で、しかもそれが…」 「どうしたんだ」 八郎は上目遣いに飛虎の顔を覗く。 「それが、太師屋の号が入った大鋏でありやした」 「何だと…?」 「それで、今奉行所が封神町に向かっていまして。この状況じゃ太師屋さんが何も知らなくてもかなり不味いから…」 飛虎は次第に歯切れの悪くなる八郎の言葉を最後まで聞かずに走り出した。 呂望は呆然と飛虎の背中を見ている八郎の背中を軽く叩く。 「済まぬがあいつを追ってくれぬか。馬鹿な真似はせぬとは思っておるが万が一のことじゃ、頼むぞ」 「へい、承知」 残された呂望は厳しい顔をして腕を組む。 「また先を越されたか…?」 最初の犯人と予想していた伊東、そしてその伊東を殺したかと思われる鈴木がまた斬られた。しかも犯人が飛虎の相棒とされているとは。 自分の知る限りの情報だけではもう想像の範囲外である。しかし飛虎は何かを既に掴んでいるようである。 呂望はため息をつくと青く澄み切った空を見上げた。 「早く捕まえた方がよいぞ、飛虎」 **** 飛虎とその後を慌てて追った八郎が封神町に着いた時、丁度家から聞仲が出て来るところだった。 両手にお縄を頂戴してはいなかったが左右を体格の良い岡引にしっかりと挟まれ、その後ろには数名の八丁堀の同心がしっかりと見張っていて、近所の者達も何が起きたのかは分からないが声をかけることはおろか近づく事すらも出来なかった。 人垣の向こうから飛虎は去ってゆく役人と聞仲達を見る。 「旦那、あれは…」 八郎が聞仲達を指差す。 飛虎の表情が一瞬大きく変わる。 そして姿が聞仲の背中が小さくなり、角を曲がって消えると飛虎は何の未練も無く踵を返してその場を去り始めようとした。 「飛虎さんっ、聞仲さんが」 蝉玉は立ち去る飛虎の背中を見つけてその袖を掴まえた。混乱した瞳で飛虎を見上げる。 飛虎は小さな肩を安心させるように叩く。 「…大丈夫だ、何かの間違いに決まっている」 「けど、あんなに沢山役人が来てて」 「平気だ。そんな顔するんじゃねえよ」 口元に優しい笑みを浮かべて蝉玉の顔を覗き込む。 「直ぐに戻ってくるから安心しろって」 ぎこちない笑みを蝉玉が浮かべると、飛虎はそっと封神町から去っていった。 その後住民たちが飛虎を探したが飛虎は戻って来ず、まま一日が終わってしまった。 **** 背の高い草が生える空き地。 晧晧と輝く月の下に一人の男が立っている。 風が草を揺らし、静かに音を立てる。 ふと、歌声が男の耳に届いた。 「眼(まなこ)閉じて闇路行かば 江戸も地獄も皆同じ 雲に乗って行こうか この浮世 どのみち全て塵にならぁ…」 男が歌声の聞こえてくる方を向くと黄飛虎が立っていた。黒い着流しが半分闇に溶け込んでいるかのように見える。 「顔色悪いぜ」 飛虎は一方的に話し始めた。 「…そりゃ、そうだよな。もう誰も知らないはずの歌を知っている奴がいるんだから。お光を殺して、新見大蔵を殺したのに何故俺が、って顔しているぞ」 月の下で見える飛虎の視線は鋭く強い光を放っている。 男はただ無言で飛虎の顔を見返す。 「あんたにはずっと先を越されていて、昨日も鈴木三郎まで殺されちまったが、やっと全てが分かったよ。…一連の辻斬りの犯人はあんたに間違いない」 かすかに男の肩が揺れる。 月光が彼の頬に差しかかり、表情の全てが飛虎にも見て取れた。 引き締まった口元に切れ長のすっきりとした目は、もう幼さは残って無いが若々しかった。 その整った顔は飛虎が記憶のある顔だった。 「萩原藩士・野口甲太郎。あんたが犯人だ」 |