「野口殿。お久しぶり…いや、三日前にもあったからお久しぶりとは言うべきではないか」 聞仲は侍の野口に対してへりくだった話し方をしなかった。 「三日前のあれは、見事だった。いくら不意を突かれたとは言え私に気配を悟られずに峰打ちで昏倒させるとは。さすが藩内随一の使い手だ」 ぴくり、と甲太郎の唇が動く。 闇夜の中では微かな動きであったが夜目の効く飛虎と聞仲にはしっかりと見分けられた。 「もう疾うに分かっていると思うが、私の本職は庭師ではないのでね。色々と調べさせてもらったし、あなたに仕組まれた濡れ衣など直ぐに晴らしたよ。 そもそも、あなたが死体を早く見つけさせる為に投げ文した北町奉行所の役人は、偶然にも私の部下だった男なのだ。だから私を捕らえに来たのは単なる形式上の手続きに過ぎず、如何なる事が起きようとも私の無実は確定されていたのだ。 まあ、今回は彼が行動をする必要もなかったけれどな。」 聞仲が役人に連れられて奉行所に行く時、飛虎は背後に張奎の姿を見つけていた。 岡引の八郎も其れに直ぐ気付き、彼らは最初から聞仲の安全を確信していたのである。 「もし私の事を何も知らぬ者が捕らえに来ても私の嫌疑は簡単に晴れただろう。 なぜなら昨夜は雨が止んでいても地面はまだ水分を多く含んでいたのだ。だから殺された鈴木と仕手の足跡がくっきりと残っていたのだよ。 そしてその足跡に立って私が鋏を袈裟懸けに振っても間合いが離れ過ぎているのだ。斬ったとしても鈴木の服と皮膚くらいだろう。 それだけで私の無実は証明され、そして凶器は太刀だと直ぐに分かったのだ。あなたは私を犯人に仕立てる事ばかり考えていて、肝心な証拠については杜撰だったのだ」 聞仲の眼が闇の中で不思議な色合いを帯びて月光を反射する。 口調と同じく淡々として容赦ない瞳だった。 「もう、あなたの身代わりの犯人は誰もいない。 そして私と飛虎は真実を全て掴んだ。 …いくら金の為とは言え、愛しい女の為とは言え人殺しなどするべきではない」 長い、長い沈黙。 甲太郎は聞仲の目を見返す。 掠れた声が、彼の口からゆっくりと発せられた。 「夕鶴を、知っているのか」 「…元はと言えば加茂屋殺しが全ての始まりなのだが、野口殿が鈴木等の誘いに乗った動機が分からなかったのだ。 金に困る浪人でもなく、悪事もせず、むしろ正義感が強くて忠義心に篤いあなたが何故、見知らぬ町人を殺すのに同意したのか。これが最後まで分からなくてね…。周辺を徹底的に洗い、そして昨日吉原に行ってやっと分かったのだ。 格子女郎(太夫の次位の遊女)の夕鶴の為に、あなたは彼女を身請けするが為に金が欲しかった。だから、殺しを引き受けたのだろう?」 ふと、聞仲の口調が柔らかに変わる。 「夕鶴は悲しんでいた。お前が会いに来ないから…」 甲太郎は俯いていた。月影が陰になってその表情は見えない。 飛虎と聞仲はそれを黙って見つめていた。 遠くから聞こえる蕎麦売りの掛け声が、辺りの静寂を引き立てる。 風が三人の髪と服を乱した。 「夕鶴には済まなかったと思っている…」 甲太郎が顔を上げる。 静かな、憑物が落ちたような爽やかな表情をしていた。背筋を正し、何の罪悪感もない明瞭な口調で話し始めた。 「本当にあなた達は良く調べられている。 聞仲さん、あなたの言う通りだ。私は吉原の遊女を身請けする為に金が欲しかった。 あの遊女とは思えない優しい彼女の為に私は鈴木の依頼を受けました。 黄殿の推理通り、鈴木と私は中垣藩の道場で知り合いました。江戸に上がったばかりの私は見るもの総てが珍しく、代々江戸詰の家の鈴木は私の何処が気に入ったか分かりませんが色々な場所に誘いました。 そして、吉原で夕鶴と出会い恋仲になりました。本当に、私達は一目で恋に落ちました。 鈴木はその後、下屋敷の腰元に手を出した事がきっかけで脱藩し、私と出会う事は無くなりました。しかし半年前急に私のもとを訪れて加茂屋錦司を殺す事を持ちかけてきて…。 勿論最初は断ったけれど、鈴木は是さえすれば夕鶴を身請けできる金が貰えると私を誘いました。 所詮侍と遊女だ。身分が違うので結婚は出来ないが、身請けさえすれば彼女を身も心も自分のモノに出来ると言われれば、私の心が動いたのも納得出来ましょう? 私は結局、罪も恨みも無い町人をいざとなれば怖気づいた鈴木の代わりに斬りました。 そして、あの日から私はあの刀に光る血の美しさの虜になり…」 甲太郎はぼんやりと月を見上げてから、飛虎の顔を見る。 「加茂屋の主人を斬った後、最初は約束通り金を払っていた平助も次第に面倒になり、金を払うのを打ち切る為に私の身辺を洗い出しました。 そしてある日私を呼び出すと、平助は私が辻斬りをしていると詰め寄り、逆に金を要求してきたのです。 元はといえば、あの男とお光が計画したのが事の起こりであるのにあいつ等は…。 刀も持たぬ人間を斬るのはつまらなかったけれど、斬るのには抵抗などありませんよ。ましてや、金と男に汚いお光や、先祖代々の家を落ちぶれさせた伊東や、女にしか興味の無い鈴木など武士としても生かしておくに値しない人間でありましたからね。 私の言葉を馬鹿正直に信じた鈴木も、虚勢を張る伊東も、全く無様で、鈴木を斬った時には清々しましたよ。 しかし聞仲さんには悪い事をした。 何も関係の無いあなたに罪を着せるのは嫌だったが、だが是しか私には選ぶ方法が無かったのだ。私には夕鶴が待っているのだから」 そこまで話すと甲太郎は息を吐き出した。 彼もまた実直で真面目な仮面を脱ぎ捨て、次第に人斬りを喜ぶ狂人の顔を見せ始めた。 「一つ伺いたい。あなた達は一体何者なのだ? そして聞仲さん、あんたの格好は何なのだ?まるで黒麒麟のようではないか」 表情を変えずに瞼を伏せたままの聞仲。 飛虎は横目で其れを見ると、口を開いた。 「あんたの勘違いがまだあったぜ。 お前さんは黒麒麟を盗賊か何かのように思っているみてぇだが、それはとんだ間違いだ。 黒麒麟って言うのはな、御城から使わされたお庭番で目付けや奉行所では解決できねぇ事件を調べる為に使わされた忍なんだよ。 そしてその黒麒麟を御城に代わって動かすのが武成王というお役目さ」 飛虎は軽い口調で甲太郎に真実を伝えた。 甲太郎の表情が固まる。 そして暫くすると口元に渇いた笑みを浮かべた。 「なるほど…。そういう事だったのか。 幕府の隠密だから是ほど調べ上げらたのだな。ふふふ、まったく思いもしなかったなぁ! なあ、黄殿」 「何だ」 「何故、私が辻斬りの犯人だと分かったのだ? 中垣藩と萩原藩の事や、新見の書いた戯曲だけでは私が犯人だと断言は出来ないはずだ。 夕鶴の事まで調べ上げなければ半年前の殺人と私を繋ぐ糸は無いはずだったのに…。 教えてくれ。私が犯した最大の失敗は何だ?」 「…最初に伊東と鈴木が斬りあっていた現場であんたと出会って、まずその表情の悪さと偶然にしては出来すぎた状況に疑問を持った。 だから俺はとっさに印籠をあんたの懐から盗んだ」 「やはり。あれは落としたのではなかったのだな」 「何だ、互いに猿芝居を打っていたわけか。 …まあいい。 その時は単なる疑惑だったが、次に封神町でお前さんに会った時、疑惑は更に強まったよ」 飛虎は懐にしまっていた手を出し、甲太郎の帯びていた太刀を真っ直ぐに指す。 「その刀だ。 そりゃあ、村正だろう?初代家康公が妖刀と言い、一切の武士に持つことを禁じた稀代の血を吸う刀を小藩の一介の藩士が持つなんて奇妙じゃねえかよ。 それに俺は思い出したんだ。江戸のある刀屋が密かに村正を手に入れたという噂をな…」 |