伊勢桑名(三重県桑名市)の刀鍛冶・千子村正。彼の作品が妖刀とされる所以は戦国時代に遡る。 ことの始まりは徳川家康の祖父・松平清康から始まる。 清康の重臣である阿部大蔵大輔定吉に反逆の疑いをかけられ、一子である正豊に逆臣の汚名をかけられ暗殺される旨を話した。当然息子は親が殺されるということで主君である清康を殺害する。その時の刀が村正。また清康の一子広忠(家康の父)も酒乱した家臣に刺されるという事件がありその時の刀も村正。 まだ奇妙な符合は続く。家康の夫人の築山殿が甲斐の武田と密通があったとして死罪、また家康の子信康も同罪として死罪。その時の刀も村正であった。 村正と徳川家三代に渡って起きた凶事により、この名刀は忌み恐れられる刀となった。 また、この刀を持つものは徳川家に逆心を持つ者とみなされた。武士は村正を所持する事は無くなった。しかし、皮肉な事に稀代の名刀故に村正は歴史に消える事無く密かに存在し続けた。 「確かに幕府は村正を忌み嫌っている。だが外様大名が大金を積んで村正を求めたならともかく、何処かの町の刀屋が密かに手に入れて数寄者に売ろうとしていると知っても、御公儀だって閑じゃねえんだし、見て見ぬフリをしていたのさ。 俺も別に気に求めなかった。だがな、人斬りの現場に居たお前さんの刀の柄が報告で聞いた村正と同じ模様の柄をしていて、俺も俄かに信じられなかったが…しかし調べる価値はあると思ったんだ。 幸い、俺の知り合いに道場を開いている男が居てな。そいつは刀の目利きが出来る男で江戸の刀屋の事はほぼ全てと言って良いほど知っていたんだ。そいつの調べどおりに山中屋に昨日行ったら案の定あんたが例の刀を買ったと主人が教えてくれたのさ」 飛虎はあっさりと経過を話しているが、実際は生半可なものではなかった。 店を閉めようとした夕暮れ時に突然押し入り、渡世人(チンピラ)同然に居座りドスの効いた声と殺意を秘めた気迫で山中屋の主人に脅しをかけて村正を手に入れた事、そして誰に売ったのかを問い詰めたのであった。 しかしこのような事情があった事を知らない甲太郎は舌を打って口止めしたのに口を割った主人を恨んだ。 「お前さんは加茂屋を殺す時に、家伝の名刀を山中屋に預けてまでそいつを求めたんだってな。 『直ぐに返しに来る』と言って質屋まがいの事を山中屋にさせておきながら、お前さんは半年も経っているのに一向に返しに来ないと主人は不平を漏らしていた。野口さん、あんたは家伝の一文字助光を捨ててまでどうして村正に拘るんだ?」 「助光など、この村正と比べれば素人が作った刀も同然だ。 こいつをあの店で見つけた時、私の胸は感激に震えた、柄を握っただけでこの刀との相性の良さは判った。そして加茂屋を斬った時、私はこの刀の真の美しさを理解した…。 この刀は、まさに妖刀だ。これほどに美しく、使い手を導く刀は無い。 特に月光の元で血を吸うとまた何とも言えず美しくてなぁ…」 ふと、言葉を留める。 甲太郎はあらぬところを見ていた目を飛虎に向けた。 「一つ伺うが、御公儀は私が村正を持っていることを知っているのか?」 「いや、未だだ。お前さんの尻尾を掴むのが精一杯で報告どころではなかったぜ」 「それは良かった」 そう言うと同時に甲太郎は羽織を脱ぎ捨てた。 腰に帯びた村正の柄に手をかける。 「此処であんた達を始末すれば真実を知るものは誰も居なくなると言う訳だな」 「ま。そう言う事だな」 狂気を全身から発する甲太郎。 飛虎もまた腰に差した刀の鯉口を親指で押し上げた。 「飛虎」 突然の展開に聞仲は驚き、やっと感情を押し殺した声で彼を呼び止めた。 飛虎は甲太郎の目を見据えたまま振り向かない。しかし背中から感じる気配で聞仲が動揺しているのは判っていた。 「聞仲、手出しは無用だ。もし俺が死んでも甲太郎を切るんじゃねえぞ。これはあくまで一対一の戦いだからな」 少しずつ、二人の距離が縮まる。 静寂の中で、二人の草を踏み分ける音のみが三人の耳に届く。 二人の間合いまで、あと一歩まで近づいた時、飛虎は表情を崩した。 「いい月夜だな。刃を合わせるにはもってこいの明るさだぁ…」 飛虎の笑った唇の端から歯が見える。 その瞬間、甲太郎の一刃が月光を反射した。 甲高い金属音が響く。 上段に斬りかかって来た甲太郎の剣を飛虎は居合の要領で抜いた刀で受け止めた。 そのまま抜刀時の力を利用して村正を払いのける。 猫のような敏捷さで体を引く甲太郎。 再び、二人は対峙する。 飛虎が剣を大きく旋回させ、正眼に構える。 「そちらが妖刀ならば此方は名刀。相州五郎入道正宗だ。―――――何か不満はあるかい?」 「まさか。面白い、やってみよう」 不敵な笑みを浮かべると二人は再び地を蹴った。 竜虎相打つ。 そのような言葉がまさに相応しい刃の合わせ方だった。 腰が低く、重厚でうなるような刀捌きの飛虎に対して甲太郎の刀は滑るように、そして鋭く烈しく攻立てる。 飛虎が上段から刀を下ろせば、甲太郎は身を引いてかわす。 甲太郎が喉元を狙って突けば、飛虎は寸前で刃を受け止めて払う。 聞仲は息を詰めて二人の戦いを見つめていた。 武に通ずれば舞に通ずる。 二人の動きは烈しかった。しかし魂魄を燃やし尽くすような強烈な一種の美しさが存在していた。 「むんっ」 気合と共に飛虎の胴を狙った甲太郎の剣が唸る。 飛虎は真っ向から村正を受け止め、押し返す。 思わぬ力に手を痺れさせた甲太郎は間合いから外れ、刀を握り直した。 飛虎も額に滲み始めた汗を拭う。 二人の乱れた息が相手の手強さを証明した。 「流石は幕府の犬だ。ただの浪人とは格が違う」 甲太郎は笑った。 「なれば斬り甲斐が有るというものだ」 飛虎もまた唇を歪めて笑う。 「俺もだ。お前みたいな使い手に会ったのは久しぶりだ」 笑みを消さない甲太郎に対し、飛虎は直ぐにその笑みを消して口を真一文字に引いた。 「惜しいな。お前には村正にとり憑かれる前に会いたかったぜ」 月が雲に隠れ二人の視界を暗くする。 時計回りに二人は動き、互いの気配を探る。 雲は風に流れ、ゆっくりと西へ移動する。 そして、再び男達の視界を明るくした。 「おおおおおおおっ」 二人は同時に叫ぶ。 そして同時に地を蹴る。 月光は二つの閃光を作った。 大きな金属音が響く。 体を合わせたまま、立ち尽くす二人。 先に動いたのは、飛虎の腕だった。 甲太郎を押しのけると頬から首にかけて付いた血を左手で拭った。 そして甲太郎の体が揺れた。 ゆっくりと、地面に吸い寄せられる様にして膝が曲がる。 彼は血を吐きながら、最後の力を振り絞って刀を地面に刺し、体を支えた。 「俺の、負けか…」 飛虎は刀を握り直し、甲太郎の背後に回ろうとする。 「介錯は、要らぬ…」 掠れた声で甲太郎は応えた。 「もう腹を斬る必要もないさ…」 そう言うとまた口から血が流れた。体から流れ出す血は甲太郎の足元を赤黒く染める。 甲太郎は最後の気力を振り絞り、刀を握った。 「あいつ…夕鶴に、国許に帰ったと…」 「承知。必ず伝えよう」 飛虎が短く答えると、甲太郎は目を細めた。 ぎん、と嫌な音が彼を支える刀身から発せられる。 甲太郎の体重を支えられなくなった刀は、悲鳴の如き音を立てて二つに折れた。 長い歴史の中で酷使され、飛虎の渾身の一撃に痛めつけられた刀は如何に名刀と雖も劣化を免れなかったのである。 支えを失った甲太郎は地面に体を投げ打つ。 「野口」 飛虎が顔を覗き込む。 其処には妖刀の呪縛から解放された男の穏やかな死に顔があった。 |