吉原の遊女である夕鶴はある男の指名を受けた。 黄飛虎と名乗る男を彼女は全く知らなかったが、野口甲太郎の知り合いだと紹介されたのでその誘いを受けた。 部屋に入ると臙脂色の着物を着た武士が酒を片手に彼女を待っていた。 顔を夕鶴に向け、口元に柔らかな笑みを浮かべる。 「夕鶴さんか」 「お初にお目にかかります。夕鶴でありんす」 夕鶴は遊郭の作法どおりに挨拶をすると飛虎の前に座った。 男は少し疲れた表情をしていたが、整った容姿をしておりなかなかの伊達男っぷりであった。 「美しいな」 飛虎はしみじみと言った。それは女を口説くものではなく、単に美醜を判断する口調であった。 夕鶴は違和感を覚える。 「甲太郎さんのご紹介と伺いましたが、旦那さんから黄様の事は一度も聞いた事御座いませぬが…」 「まあそうだろうな…」 飛虎は苦笑を浮かべて酒を飲んだ。 空になった杯に酒を注ごうとすると飛虎は夕鶴の手を止めた。 「俺はあいつからの言伝を夕鶴さんに伝えに来たんだ」 真摯な視線に夕鶴は身構えた。 飛虎は怯えたような表情をする彼女の白い顔を見て胸中に苦しい疼きを感じたが、表情を変えずにその顔から視線を動かさなかった。 「あいつは国許に帰った。藩の急な命によってな…」 夕鶴の双眸が揺れた。一瞬にして瞳が潤みだす。 「お前との約束を違えてしまった事を許してくれと、言っていた。 お前さんへの気持ちは何ひとつ変わっていないが、しかしもう江戸には参られないと伝えて欲しいと言われた」 飛虎が淡々と告げると女の目からは大粒の涙が零れ出した。 「もう…会いに来ては下さらないので御座いますか?」 「無理だ。あいつは二度とお前に会えない」 「藩に私との関係が露見したので御座いますか?」 「…俺は萩原藩の者ではないんで分らねぇんだ。だが、そうかもしれないな」 女の細い肩が細かく震え、両手で覆い隠された顔から嗚咽が漏れる。 飛虎は視線を畳に落とし、口元を手で覆った。 言葉にならぬ沈痛な時間が流れる。 二人はそれぞれに胸の中に気持ちを抱えて黙った。 暫くして飛虎がやっと重い口を開けた。 「伝える事はそれだけだ。金は俺が払っておいたからお前は今夜だけはこの部屋で一人になるがいい。 思い切り泣いちまった方が、楽だろう?」 夕鶴は呼吸を整えると泣き笑いの表情で顔を上げた。 「覚悟は出来ていましたの。 所詮、遊女のあちきがお侍様と一緒になれるなんて…。先日あの金髪の美しい方が甲太郎さんの事を聞いてきた時、嫌な予感はしましたの。あの方はきっと萩原藩から調べるように使わされた人だったので御座いましょうね。 でも…やはり辛うございますわ」 「俺にはもうこれ以上何も出来ない。だが恋は一度だけではないのだからな。きっとまた誰かが…」 飛虎は自分がどんなに残酷な事を言っているのか痛いほど分かっていた。 しかしこれ以外に何と言えばよいのか分からなかった。夕鶴もまた飛虎の気持ちを十分に理解していた。力ない笑みを浮かべて無言で頷いた。 飛虎は立ち上がる。 「それじゃあな。もう二度と合う事は無いが達者で居てくれ」 「有難う御座います…」 襖が閉ざされ、一人ぼっちになった夕鶴は袖で顔を覆うと今度こそ大声で心の奥底から泣いた。 馬鹿、甲太郎さんの馬鹿。 あんた、あちきを身請けする為に無茶をしていたのでありんしょ? あんたは隠していたつもりだったけれど、あんたは変わったもの。 半年くらい前からあんたの顔つきが変わっていったのを一体どんな思いで私が見ていたか分かりんすか? あちきはねぇ。あちきは甲太郎さんの顔さえ見られれば十分幸せでありんした。 郭に居続けたってぜんぜん構わなかったのでありんすよ。 嗚呼、恨みますわ。 けど、一生忘れません。 甲太郎さん。好きよ。心の奥底から…。 **** 女の泣き声を聞きながら飛虎は階段を降りる。 入り口で預けておいた刀を再び手にして左に帯びる。羽織を肩に引っ掛けて門を出た。 ふと脇を見れば手拭いで目立ちすぎる髪を隠した聞仲が腕を組んで待っていた。 「…話は済んだか」 「ああ。泣かせちまったけどよ」 二人は白粉の香り艶かしい遊女の誘い手をすり抜け、吉原唯一の出入り口の大門に向かう。 左右には艶やかな赤い提灯が等間隔に吊るされている。飛虎はそれをぼんやりと見あえげて呟いた。 「見た目は綺麗だがやっぱり此処は苦界だな。男と女の深い業が詰まっている」 「まったくだ」 飛虎は視線を隣に移すと聞仲を見た。 「ところで一つ質問していいか?」 「何だ」 「お前、どうやって夕鶴に近づいたんだ?俺はてっきり客に成りすましたのかと思っていたがそうでもないし、夕鶴はお前に会ったっていうから忍びとしてこっそり調べたわけでもないし…」 ぎくり、と聞仲の表情が変わる。 慌てて飛虎を睨むと足を速めた。 「秘密だ」 「でもよ…」 「五月蝿い、そんな事はどうでもいいであろう。早く帰るぞっ」 「待てよっ」 二人は子供の様にはしゃぎながら夜の遊郭を去っていった。 …そんな二人をふと意味深に見つめる芸者一人と幇間が一人。(幇間=宴席で滑稽業などをして場を盛り上げる男芸者。たいこもちとも言う。) 今夜は鶯色に駒鳥の紋様の染めを抜いた着物を着た呂望こと芸者御園は扇で口元を隠しながら通り過ぎた飛虎と聞仲を見送った。 「まったく目立つのう、あの二人は。すっかり仲良くなっておるわ…」 「ホントにあの二人吉原に通っていたのかよ」 御園の三味線と抱え、太鼓を背中に背負っている幇間姿の青年は姫発である。 「あの様子では仕手を捕まえたようじゃの。ま、聞仲があのような艶姿になったのだから捕まえなくては無駄骨になるもの…」 「え?何だって?」 首を伸ばして御園の顔を覗き込む姫発。 思わず胸の内を独り言にしてしまった御園は扇を閉じると発の頭を思い切り打った。ぱしりと小気味の良い音がする。 「これ、人の顔をじろじろ見るな。早くお座敷に上がるぞ、おぬしは半人前なのじゃからしっかりと先輩方の技をしっかりと学ぶのじゃぞ」 「いってーなぁ!大体なんで俺が幇間にならなくちゃいけねぇんだよ!」 「ほう…貴様ワシに向かってよくそのような口をきけるのう…」 すっと御園の瞳が細められる。口元には堪えきれない怒りが見え隠れする。 発は顔色を一変させる。 「今までの悪事をお父上知らされたいのか…?」 「ハイッ、ゴメンナサイ!さささ、早くお座敷行きやしょう!」 「分かればよい、分かれば」 にこりと微笑むと御園は軽やかに下駄を鳴らして吉原の大通りを歩き始めた。 一方で内心もう少しで先日の聞仲の艶姿について知られるところだったと冷や汗をかいた。 先日、甲太郎と飛虎が斬り合った前日――――つまり聞仲が床上げをしたその夜、飛虎と別行動をした聞仲は<竜吉>に来ていた。 予め飛虎の連絡によって「野口甲太郎という侍と関係のある芸者若しくは遊女が居たら渡りをつけて欲しい」と依頼された御園は昼になって夕鶴の存在を調べ上げた。 また「見つけ次第封神町に使いをくれれば自分の代わりにその女に会いに行く者を遣わせる」と言っていたし武吉が持って来た飛虎の返答も同様だったので、深川で待って居たらやって来たのは驚くほどの美形の聞仲だったわけである。 (しかしあれは困ったのう…) 御園は聞仲を見て困った。なにしろ聞仲は美しい容姿をしすぎていた。いくらどんな格好をしても吉原の遊女達よりも目立ってしまう。 さてどうしたものかと考えて御園は「木は森の中に隠せ」的な逆の発想を思いついた。 つまり聞仲に遊女の格好をさせたわけである。化粧を施し、女らしさを殊更強調させる内掛けを着せれば少々体格は良いが十分美しい遊女の出来上がりであった。 勿論、聞仲は抵抗した。 しかし己の姿が目立つと言われると、ぐうの音も出ない彼(但し本人は金髪で長身であるから目立つと思い込んでいる)は、「絶対に口外するな。口外したら命が無い物と思え」と口止めしてからやっと御園の差し出した着物に袖を通したのであった。 御園も根性はすわっている。小柄な体ではあるが一通りの武術は嗜んでいるし、そう簡単には命を奪われる事も無い。しかし相手が冗談の通じない聞仲となれば話は別である。 (あぶなかったわい…) 御園は肩を動かしてコリをほぐす。 兎に角事件は解決したようである。 ならば何も考えずに自分はいつもの生活をするべきである。(本来ならこの事件を題材に脚本を書きたいところだが、それは無理であろう。) それよりも発をどうにかしなくてはいけない。この男が自分の敬愛する主君の息子だと思うと悲しいやら悔しいやら…。 御園は滅入って来た気持ちを小さな吐息にして胸のうちから吐き出す。 そして背筋をしゃんと伸ばすと遊女に他所見して足を止めている姫発の頭をまた叩いた。 「だぁほが!」 「いてーっ!」 芸者御園であり劇作家太公望であり、そしてどうやらもう一つばかし秘密を隠している呂望青年と、姫発が出会ったのは深川の芸者屋であるのは既に述べている。 では何故姫発が御園の幇間になっているのか、また姫発は一体どんな弱みを握られているのかは、本編とは関係の無い話であるので、また別の機会に話すとしよう。 |