上野寛永寺。 正式名を東叡山寛永寺円頓院という天台宗の寺である。元々は江戸の鬼門を封じる為に作られた寺であったが時代経過と共に、増上寺と並び幕府歴代将軍の菩提寺になった。 (幕末の戊辰戦争で彰義隊が立て篭もり戦った折に寺の多くは焼失し、現在見ることの出来る物の多くは再興されたものや寛永寺と由緒ある寺院を移築した物である。) 広大な緑と敷地を有した寺はその性質故かひっそりと厳かな雰囲気に包まれている。白い玉砂利は昼下がりの静かな太陽を時折反射する。 人気の無い中庭に面した廊下に男が藤製の座布団に座っていた。 濃紫の羽織に南部染めの着物を着た男は背筋を伸ばして論語を読んでいた。 ふと彼は論語から顔を挙げ、庭を見た。 庭の右端には二人の男がいつの間にか膝を着いて控えていた。裃姿の飛虎と町人姿の聞仲である。 「近くへ」 男が低い声で言うと二人は彼の足元辺りまで近づいた。 論語に再び視線を落とすと男は独り言のように口を開いた。 「今回の事件、御苦労であった。仔細は先日貰った書を読んだ」 二人は黙って頭を下げる。 「しかし辻斬りの裏に村正と遊女が関連していたとはな…。しかも真っ向から隠密に刃を向けるとは、いやはや」 男が言葉を止めて複雑な表情をすると、飛虎は視線を玉砂利に落としたまま答えた。 「人の想いという物は武士としての誇りも捨てさせるので御座います」 男は飛虎に視線をちらりと動かす。 飛虎は無表情なままだった。隣の聞仲の瞳が曇った。 男は小さなため息をついてまた論語に目を戻す。 「そうであったな」 鳥が庭の木から飛び立ち、チチチと囀る。 穏やかな日差しが三人の上に平等に降り注いだ。 「何はともあれ御苦労であった。…おぬし達はこれから用事はあるか?」 「いえ」 「いいえ」 二人は首を横に振る。 男は懐から白紙に包まれた書を取り出した。 「何処でも良い。好きなところへ行って疲れを癒すが良い。一月でも二月でも」 聞仲が足を進め、それを受け取る。 男はその時になってやっと二人をしっかりと見つめた。 「泰平の世と呼ばれて久しいがそれはあくまで昼間だけの事。武成王、黒麒麟。これからも夜の江戸を護ってくれ」 二人は御意と答えると立ち上がり、深々と黙礼をすると静かに庭から去って行った。 **** 江戸城下でも屈指の賑わいを見せる上野広小路を二人はのんびりと歩く。 飛虎は裃を脱ぎ捨て、いつもの着流し姿になっている。裃の入った風呂敷を持ちながら両手を伸ばし、大きなあくびをする。 「ああ…やっと終わったぜ」 「そうだな」 飛虎は手を伸ばし、聞仲の懐に収まっていた書状を取り出す。 「コラ、飛虎」 「何くれたんだよ」 「家に帰ってから見れば良いだろ」 「いいだろ、気になるんだから」 行儀の悪い飛虎を嗜めようと飛虎を見上げる。 書状を取り上げられないように頭の更に上で広げる飛虎。軽く体を捻って聞仲の手を交わすと書に目を通した。 「へえ…粋な事してくれやがるぜ」 飛虎は書状を聞仲にちらつかせた。 「…手形?」 聞仲はぽかんとした表情でそれを見つめる。 「さっきあの方が言っていたじゃないか『何処でも良いから出かけて休んで来い』てさ」 「そう言えば確かに」 「だろ?お前の事だからどうせ休むつもりも無かったようだがな」 図星を疲れた聞仲はむっつりと黙り込む。 飛虎は二人分の通行手形を懐にしまうと聞仲の肩を叩いた。 「何処にするか?」 「近場でゆっくりしよう」 「ならば成田山、江ノ島、箱根、熱海って所か」 「熱海が良いな」 「俺も熱海が良い。美味い魚と温泉があるからな」 「そうだな…」 それから男達はまだ見ぬ熱海に思いを馳せ始めた。 熱海への道のりは、荷造りは、何処へ行こうか何をしようかと眼を嬉々と輝かせる。 それはまるで二人の大きな子供がじゃれあっているようであった。 江戸には又平和が訪れた。 昼間は商人達が客を呼び、地方から銘品が届けられ、威勢の良い掛け声が響く。 闇夜もまた恐れる物は無くなり、吉原を訪れる客は増え、向島には芸者の奏でる三味線が響き、広小路には屋台が並ぶ。 こうして江戸の町はまた華やかに、粋に賑わってゆくのであった。 <了> |