「ああいい湯だ」 飛虎は湯船にゆったりと身を疲らせて軽やかに独り言を呟いた。 岩で囲まれた露天風呂はなだらかな丘の上にあるので、熱海の町並みとその先に続く海が良く見えた。夕日が橙色に輝き、見事な絶景である。 「本当だな」 聞仲もまたほうっと溜息をついてその景色と暖かい湯に体をくつろげた。 熱い湯を好む江戸ではゆっくりと風呂に浸かるとのぼせてしまうが、こうした露天でしかも丁度良い温度の温泉ではのんびりと湯を楽しむ事が出来た。 微笑みすら浮かべている聞仲を飛虎は見慣れぬ気分で見た。自分と居る時は堅苦しい無表情か気難しい顔をしている事が多かったので彼はその横顔をじっと見つめた。 その時、聞仲の腕に古い傷跡が残っている事に気付いた。 三寸ほどの刀傷が上腕にあり、それは彼の白い肌のなかで唯一有る不自然な薄紅色だった。 「…痕が残ったのか」 聞仲は飛虎の言葉の意味を捉え損ね、飛虎の顔を見返す。そして視線が自分の腕にある事を理解して軽く肩を竦めた。 「…まあな。だが痛むことは無い」 聞仲は続けて言葉を発して飛虎の気を自分の古傷から逸らさせる。 「そういうお前だって額に残っているのだろう?」 飛虎は一瞬戸惑った顔をして、それから額に手を当てて髪をかき上げた。 「何だ。分かってたのかよ」 「あの傷が治るとは思えなかったからな」 大きな手で髪が後へと流されると顕わになった額の右側、普段ならば前髪で隠されている場所には大きな傷跡があった。それは聞仲と同じく刀傷だった。 二人は無言で海の向こうへ消えていく夕日をじっと見詰めていたが、心の中は同じ事を思い返していた。 十年前、二人は将軍家菩提寺で開かれた茶会で出会った。 互いに手には刀、殺意を漲らせた対峙。白石の敷き詰められた庭で二人の血が色鮮やかに滴る。 青みがかった灰色の目は怒りに燃えていた。翡翠色の目は冷たく、目の前の男を仕留め様としていた。 手負いの獣の如き凶悪な殺気を発していた飛虎は幼い頃から鍛錬を受けてきた聞仲すらも動揺させるほどの迫力があった。もし、あのまま自分と彼が刃を交えたら一体どちらが生き延びたのだろうか? 聞仲がそこまで考えた時、飛虎が大きな音をたてて湯船から立ち上がった。 「あんまり浸かりすぎるなよ。のぼせるぞ」 苦笑交じりに聞仲の肩を叩いて去った広い背中を聞仲は眼で追う。 鼻歌交じりに体を洗う彼にあの時の殺意は無いように見える。しかし彼の本質があの時と変わっていない事を聞仲は先ごろ解決した事件で知っていた。 太陽は水平線の向こうに半分以上落ちている。 まるで金糸を使って織った錦帯の様だ、と聞仲は思い、そしてその色が十年前に彼の許婚が纏っていた帯と同じ色合いだと気付いた。 |