浴場での僅かに流れた緊張の空気は太陽が沈んだ時にはすっかり消えていた。 部屋に戻れば海の幸をふんだんに使った料理と上手い地酒が用意されており、二人は互いに酌をしながら飲み続け、料理も酒も追加注文を繰り返し、気付けば部屋には数え切れない徳利と大皿があちこちに置かれていた。 しかし人一倍酒に強い二人は、それほどまでに飲んでも酔い潰れていなかった。ほろ酔い気分で丁度気持ち良い、という程度の酩酊感しか味わっていない。 「ああ満腹だ…」 飛虎は隣の間に敷いてあった布団の上に大きな体を転がせた。 聞仲も今すぐにでも横になりたい気分だったが、元来の生真面目さの為、膳や徳利を纏めて廊下に並べておいた。 軽い気配が移動するのを飛虎は眼を閉じたまま耳と肌で感じる。一見只人と変わらないが足音を極力殺した身のこなしは長年鍛錬を積んできた忍びのものだった。 普段の彼ならば、それを勘違いする事はなかった。だが、夕暮れ時に久しぶりに心の古傷を抉られ、酔って心の箍が緩んでいたので彼はその軽い足取りを別の女と間違えた。 すっと軽い足音で気配が枕元に近寄る。 「飛虎…?」 ぼんやりとした意識のまま飛虎は手を伸ばし、指に触れた手を握った。 「賈氏…」 手の中の指が強張る。飛虎はその瞬間、己がしてはいけない間違いをした事に気付いた。 眼を開ければ張り詰めた顔の聞仲が自分を見下ろしていた。溜息を漏らし、飛虎は出来るだけ滅入る気持ちが沈みこむのを防いだ。勤めて明るい声で話したが実際は軽い虚しさは拭いきれなかった。 「酔っ払いの戯言だ。忘れてくれ」 「…飛虎」 聞仲は飛虎の手を握り直す。身を乗り出してじっと傷付いた眼を見つめた。 「もう、誤魔化すのは止そう」 聞仲の声は掠れていた。彼は胸の奥が鈍く痛むような恐怖と対峙する覚悟をしたが、それでも緊張していた。 「十年前、私達は真剣を抜いた。…それは紛れも無い真実だ」 飛虎の眼が動き、翠の眼を見上げた。聞仲はもつれそうになる唇を湿らせて言葉を続けた。 「そして、お前の許婚も死んだのも紛れない真実だ」 |