白梅が薫る庭園を武家の娘が歩いていた。 春の先駆けが息吹き始めた古刹で茶会が開かれ、彼女は招かれた幕府の重鎮の一人娘だった。 普段は屋敷の奥深くで暮らしていたが、彼女の茶道の腕前が噂を呼び、この茶会に招かれたのである。緊張していたが自分の役目を間違いなく終え、一安心した彼女は始めてこの庭園の美しさに眼を奪われる余裕が生まれていた。 常緑樹と緑苔、白梅と白石が敷き詰められた庭の中で橙の帯に金糸で刺繍を施された彼女の帯が歩みに合わせて揺れる。 彼女の手に届く枝に気付くと彼女はそれを触れ、高貴な薫りを吸い込んだ。 「そうしておると白梅の精のようであるのう」 低い老人の声に、彼女は驚き振り向く。 先ほどまで誰も居なかった背後に恰幅の良い老人が好色な笑みを浮かべて彼女を見ていた。 彼女は息を飲み、数歩身を引く。 「これ、そう逃げずとも良いではないか」 大きな瞳が不安と恐怖に揺れる。彼女は許される事ならばこの場を走って逃げ去りたかった。しかし、老人の言葉に彼女は逃げるすべを失っていた。 一歩、一歩と老人が歩み寄る。皺だらけの手が彼女の白い手を取った。 「おお、白く柔らかい手だな…」 彼女は俯き、唇をかみ締めた。まだ触れられていないもう片方の手を強く握り締め、誇り高くはっきりと口を開いた。 「私は、翌月に黄家の御嫡子様に嫁ぐ身でございます。…父以外の殿方に触れられるくらいならば、自害いたします」 美しい女は涙を零しながら、だが堅固な意思を持って老人から己の手を取り返す。 「たとえ先の将軍様であってもそれは変わりませぬ」 女は美しかった。その涙が、彼女の誇り高い美しさを引き立て更に老人の興味を涌かせる要因になっている事を彼女は気付かなかった。 飛虎は一人庭園に向かった許婚を追いかけて白梅の林に向かえば、そこには信じられない光景が彼を迎えた。 懐剣で自らの胸を突いた彼女が、倒れていた。 「賈氏っ」 彼が彼女を抱きかかえ身を揺らすと女の眼がうっすらと開いた。 「飛虎…」 幼馴染の許婚は今にも泣きそうな顔で賈氏を見ていた。 「御免なさい…。飛虎…許して…」 最後の呼吸の中で彼女は何とか唇を動かして飛虎に最後の別れを告げた。 そうして彼女は眼を閉ざし、事切れた。白い咽喉が晒され、銀の簪が白砂利の上に硬い音をたてて落ちる。 「賈氏…賈氏…?」 飛虎は彼女の頬を撫ぜ何度も呼びかけるが、溌剌とした美しさを秘めた賈氏は使い手を失った人形のように彼の腕の中で動かなかった。胸に突き刺さったままの懐剣から血が惰性で流れ続け、象牙色の着物を紅色に染めていく。 飛虎は、その紅色に指を這わせ、それが彼女の血であることを認識した。 「何で…何でだよ…」 彼女の亡骸を腕に抱えて蹲る飛虎の背後から、動揺した声が聞こえた。 「わ、私のせいではないっ」 嘗ては武士の中で最も位高き人物であったが、今ではそこに居るのは無様な老人が居るだけだった。 飛虎はぼんやりとした眼で動揺し、自分に言い訳の言葉を並べ続ける老人を見ていた。そして、言葉が頭の中で繰り返されていくと、己の中で戒めていた全てのものが燃え尽きていくのを感じた。 賈氏の亡骸をそっと横たわらせ、長身の男は立ち上がる。 「あなたが…俺の許婚を殺したのか」 「違う、あの女は勝手にっ」 「賈氏に、何を、した…?」 「・・・・っ」 低い咽喉の奥から引きずり出すような声に、老人が怯んで唇が動かなくなった。 飛虎は躊躇いなく腰に佩いていた剣の柄を握り、目の前の男の目を見た。彼にとって、その老人は許婚を死に追いやった好々爺であり、先の将軍ではなかった。 白刃が鞘走り、上段から斬り捨てた。だが、飛虎に還ってきた手応えは肉と骨を絶つ感触ではなく、肉を微かに切る感触と刃の様な固い感触だけだった。 翠の眼が、飛虎の眼の高さより僅かに低い場所から見上げていた。 全身を身軽な黒装束と頭巾に固めたその人間は見えるのは眼だけで、他は何も見えなかった。 腕を斬られたがその黒装束は眉一つ動かさず、飛虎の刀を受け止める剣を握る腕の強さは変わらなかった。逆に隙を見せた飛虎の刀を押し返し、飛虎に斬りつける。刀身に麒麟の彫り物が施された美しい刀は同時に鋭い名刀であった。 飛虎の体が仰け反る。 その間に黒装束は背後の老人を後に下がらせ、飛虎との間合いを詰めた。 もう一太刀浴びせようとしたが、飛虎はすぐに姿勢を正して翠色の眼を睨み返していた。 額から血が流れ、眼に入り、片目の視界が赤く濁ったが飛虎は全く気にしない。 「邪魔を、するな」 獣がするような低い威嚇の声に黒装束は微かに身じろいだが、刀は真直ぐに飛虎に向けられている。 血に濡れた玉砂利を踏みしめる二つの足音が静かに響く。 二つの刃が再び互いの命を奪うためにぶつかり合おうとしたその時、朱色の柄の小太刀が黒い覆面を掠めるようにして飛んできた。 黒い布がふわりと舞うようにして落ちる。顕わになった顔は白磁の肌と黄金色の髪の美しい男だった。 飛虎は一瞬突然現れた美貌に眼を奪われる。 金髪の男は小太刀が飛んできた方向に眼を走らせた。 「其処までだ。刀を納めよ」 若年だが、歳不相応なほどの威厳を持った青年が張りの有る声で命ずる。 彼の半歩後には影のように長身の女が二人を警戒していた。 「李子様」 「朱氏…」 飛虎は青年の名を、聞仲は女の名を呟いた。 先の将軍が御三家の家老の娘・賈氏に不埒な行為をした事を明かさねばならぬ限り、旗本六千石の黄家の嫡子・黄飛虎の切腹を命ずる事も出来ず、この事件は闇へと葬り去られた。 表向きには黄飛虎は勘当されて放浪の身となり、先代将軍は三河に隠居し、そしてこの件を見事に裁いた李子が次期将軍に指名されたのである。 |